月別アーカイブ: 2013年10月

めぐみのパンくず

しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」        ヨハネ6:20

◎湖上の奇跡です。二つのタイプがありますが、一つはイエスさまと弟子たちが一緒に舟に乗っていた時に起こった嵐の中での奇跡。もう一つはここで学ぶ弟子たちだけが舟に乗っていた時に起こった奇跡です。

◎舟が4,5キロ漕ぎ出されたころ、暗くなり、強風が吹き荒れました。「風は荒れ狂う、悪魔のごとく、お舟はわだなかの木の葉ににたり」と聖歌691番にありますように、波と風に翻弄され、弟子たちは恐れの中に包み込まれたのです。

◎イエスさまは湖の上を歩いて来られたのですが、弟子たちは、よく見えなかったのでしょうか、幽霊と間違えてしまいました。そこにお声をかけられたのです。「わたしだ、恐れることはない」と。信仰者が恐れる時にかけて下さる素晴らしい御声です。

◎「わたしである。エゴー・エイミ」~「わたしこそ、それである」。ヨハネの福音書には9回も(非定型をも含めて)このお声が響きます。「あなたと話しているわたしがそれである」とサマリヤの女に 4:26、「わたしは世の光だ」8:11、「わたしこそ、自分の証人」8:18、「わたしは、羊の門です」10:7、「わたしは、良い牧者です」10:11、「わたしは、よみがえりです。いのちです。」11:25、「わたしは道であり、真理であり、いのちである」14:6、「わたしはまことの葡萄の木」15:1、「この世の者でない」非定型17:14と。イエスさまがキリスト者にとってどういうお方かこの語りかけを心に銘記しておきたいものです。

◎「恐れることはない」。人間は実によく恐れる存在です。しかし、このお方の御声がかかると恐れは消し去られ、目的地に到達するのです。

めぐみのパンくず

ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹、持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。”          ヨハネ6:6

◎五餅二魚の喩です。イエスさまがなされた奇跡中の奇跡と言われ、四福音書すべてが記している唯一の奇跡です。しかしながら、この奇跡は信じられないと言う人に時々出会いますが残念なことです。

◎イエスさまは人々の空腹の心配をして下さるお方です。男だけで五〇〇〇人、女子供を入れると1万人をはるかに超えていたであろうと思います。それは、世界の人口がいかに多くとも、来るものを満たすことのできるお方をあらわしいるのです。ピリポに「どこから~買ってきて~食べさせようか」と試されていますが、私たちへの信仰の問いかけでもあります。

◎アンデレはイエスさまに人を連れてくることが得意な人でした。五つのパンと二匹の小さな魚を持っていた少年を連れて来ます。この少年はイエスさまに自分ものをささげたいと思っていたことでしょう。

◎五つのパンと二匹の魚を手に取られたイエスさまの姿と言葉に真似たいと思います。まず感謝をささげられました。見ゆるところ自分の思いと違っていてもキリスト者は与えらえたものに感謝しなければなりません。イエスさまは父なる神への感謝を持って始められました。そうすると奇跡が起こったのです。

◎もう一つは「無駄にしないように」とのお言葉です。無駄にせずに集めよと言われるのです。イエスさまが今までなして下さった恵みを一つも無駄にしないようにと自らも、又すべてのキリスト者にも願います。

 「わたしに対する神の恵みはむだにならず」Ⅰコリント15:10と言った使徒パウロのように、復活を目前にして告白できるものでありたいと思います。

めぐみのパンくず

あなた方は、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。”   ヨハネ5:39

◎イエスさまが救い主であることを証言するものが4ッつあると言われました。イエスさまご自身の証言は、申命記のみことば「二人または三人の証言によって立証されねばならない」を大切にされた所から来ています。

◎第一の証言者は父なる神さまです。Vs32、37。一度もその声を聞いたことがないのに、御姿を見たわけでもないのですが、父なる神さまが御子イエスさまを遣わされたと信じるなら理解できるのです。信仰は見えないお方を見ている如くに受け入れられる唯一の方法です。

◎第二に、バプテスマのヨハネの証言がありました。ユダヤ人たちはヨハネをエリヤの再来として喜びましたが、真理を示し、厳しいことを語り始めた時ユダヤ人たちは離れて行ったのです。

◎第三はイエスさまご自身の業が示します。癒し、慰め、赦し、力づけ、力を与え生きる勇気を与えて下さるイエスさまの業を救い主としての業と信じたものは幸いなるかなです。

◎最後は聖書です。「聖書はわたしについて証言している」vs39と言われました。66巻のキリストを書いた著者は「聖書のどこを切ってもイエスさまの血が流れている」といいましたが、聖書はまさに救い主の証言者です。ユダヤ人たちは聖書といえばモーセ五書(律法)でした。律法をユダヤ人に与えたのはモーセでした。ユダヤ人たちにはモーセがいるから大丈夫と思っていましたが、モーセ(律法)は主を信じない者を訴える役目でしかないと言われるのです。

めぐみのパンくず

“父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思うものにいのちを与えます。”

  ヨハネ5:21

◎今日のテキストの中で、イエスさまは三度「まことに、まことに、あなたに告げます。」vs19,24,25と語っておられます。とても大切な事を告げられる時、このような言い方をされました。

◎19節からは父から委託されたこの世における業について語られます。それは愛のわざだと言われます。父なる神がなさる通りに、子なるイエスさまもなさるのです。そのわざとは死人を生かし、いのちを与えるものでした。同時に永遠のいのちを与える権を持たれたお方はさばきの権をも持たれます。

◎24節は父なる神とイエスさまへの信仰が問われることが語られています。信仰とはイエスさまのことばを聞いてイエスさまを遣わされたお方を信じる事だと言われます。なぜ信じるか、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことなく、現在において死からいのちに移っていることを確信するためです。いのちを持ち、さばきに会わず、すでに地上にありながら天国の歩みを信じれる世界に住まうのです。

◎25節、今を大切にとイエスさまは言われます。信じることの大切さを後のことに延ばして、信じられなくなった人々が何と多いことでしょう。イエスさまを受け入れる前は、神さまの目から見ると死んだ者でした。今、不信仰の世界、死んだ者の世界から信仰によって抜け出せと言われているのです。そしてやがての時、往く年生ける者すべてが墓から率い出され、神さまの前で裁きを受けるのです。

キリスト者にこの裁きはありません。すでに永遠のいのちに移されているからです。ハレルヤ!