タグ: アモス書

  • 主を求めて生きよ

    静まりの時

    • テーマ:公平と正義
    • 聖書箇所:アモス5・6~15
    • 日付:2026年08月21日(金)

    6 主を求めて生きよ。
     そうでないと、
     主は火のように、ヨセフの家に激しく下る。
     火はこれを焼き尽くし、
     ベテルにはそれを消す者がいなくなる。
    7 彼らは、公正を苦よもぎに変え、
     正義を地に投げ捨てている。

    14 善を求めよ。悪を求めるな。
     そうすれば、あなたがたは生き、
     あなたがたが言うように、
     万軍の神、主が、ともにいてくださる。
    15 悪を憎み、善を愛し
     門で正しいさばきを行え。

    主を求める者は、公正と正義、善を求めます。正しいさばきを行います。そのような道に、神さまはともにいてくださいます。そうして私たちはまことに生きる者となります。

    私たちは自分の罪を自分ではどうすることもできません。私たちの罪は主の十字架と復活によってのみ解決されます。私たちの罪は神がそのいのちを捨てなければ解決できないほどに深く大きいものでした。私たちは主の十字架をまえにして、その現実を学びます。それとともに、神さまはご自身のいのちを捨ててまでも私たちを救いたいと願われました。私たちは主の十字架を前にして神さまの愛の深さ広さを学びます。

    こうして私たちは無条件で罪をゆるしていただきました。神さまに罪をゆるしていただくことこそ、大切なことです。神さまこそまことにさばくことの出来るお方です。その神さまにゆるしていただくことは、もはや何ものをも私をさばくものはない、ということです。

    この恵みに生きるためには、主イエスさまを信じることが必要ですが、それは、まず主がまことの神さまである、ということを信じることです。主がまことの神ではなく被造物であるとなれば、私の罪はそれだけの罪であり、神の愛もそれだけの愛でしかないことになります。まことの神が私のために死んでくださったことが欠かすことの出来ない真理なのです。

    それとともに、聖書は、十字架によって救われる、とのみ語るのではなく、十字架と復活によって救われる、と語ります。

    主は十字架ののち復活されたのです。復活していま私とともにいてくださいます。この、ともにいてくださる、ということは大切です。ともにいてくださるので心強いとか安心であるということですが、それだけではありません。

    私の罪のために死んでくださったかたが私をゆるしてともにいてくださるのです。それを心の底から信じたのであれば、もはや罪を犯すなどということは考えられないことです。もちろん罪を犯さずには生きられないのが私たちですから、まったく犯さないようになるというのではありません。罪を犯すことにアレルギーを持つようになる、ということです。罪赦されたのだからもはや何をしても救われているので、気にせず罪を犯そう、ということであれば、それは復活の主を信じることになっていません。すなわち復活を信じていないのです。復活の主を信じてこそ、救われた喜びに生きる者となるのです。

    復活の主とともに生きる、ということは、公正と正義、善を求めることです。正しいさばきを行うものとなることなのです。