カテゴリー: 静まり~聖書の言葉から

聖書の言葉から

  • 彼らは自分たちが突き刺した方を仰ぎ見る

    静まりの時 ヨハネ19・31~42
    日付:2023年04月08日(土)

     イエスのところに来ると、すでに死んでいるのが分かったので、その脚を折らなかった。しかし兵士の一人は、イエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、すぐに血と水が出て来た。
     これを目撃した者が証ししている。それは、あなたがたも信じるようになるためである。その証しは真実であり、その人は自分が真実を話していることを知っている。
     これらのことが起こったのは、「彼の骨は、一つも折られることはない」とある聖書が成就するためであり、また聖書の別のところで、「彼らは自分たちが突き刺した方を仰ぎ見る」と言われているからである。
    (ヨハネ19・33~37)

     「彼らは自分たちが突き刺した方を仰ぎ見る」。

     イエスさまは「自分たちが突き刺した方」であり、そのお方を「仰ぎ見る」。この聖句は、旧約聖書・ゼカリヤ書12・10からの引用と欄外の注に書かれてあります。ゼカリヤ書12章は、共同訳聖書などでは表題に「エルサレムの救い」とありますので、神さまの救いの御業が記されている中からの一節ということです。神さまの救い、と、自分たちが突き刺した方を仰ぎ見ること。この二つのことが結びついている、ということでしょう。私たちは、イエスさまを突き刺したのが自分自身であることを告白します。そしてそのお方を仰ぎ見る者となり救いをいただきました。

     十字架に死なれたイエスさまは「アリマタヤのヨセフ」によって埋葬されます。「ニコデモ」も一緒にその手伝いをしました。
     アリマタヤのヨセフのことをヨハネの福音書は「ユダヤ人を恐れてそれを隠していた」と紹介します。またニコデモのことは「以前、夜イエスのところに来た」と紹介します。
     それぞれに社会的な立場があったからでしょう。自分がイエスさまの弟子であることを公に表明することに躊躇した人物たちであった、と紹介するのです。
     私たちは、どのような場面であっても、どのような人の前であっても、その顔色をうかがうことなく、また自らの立場がたとえまずいことになると予測されても、自分がキリストの弟子である、ということを表明してきたでしょうか。もしそのように胸を張ってキリスト者であることを明らかにしてきた、ということであれば、それはそれで素晴らしいことだと思います。しかしこの世に生きている限り、難し場面も経験してきたのではないでしょうか。社会的な立場や責任があればあるほど、そういう場面を多く経験してきたのだと思います。
     このヨハネの記述は、神さまというお方は、そのような、ある人から言わせれば「生ぬるい」信仰にしか生きることのできなかった人にも、きちんと証しの場面を用意してくださるお方である、ということではないかと思います。おそらくこのヨセフやニコデモだからこそ、イエスさまの遺体を取り下ろすことをピラトに申し出ることが可能だったのだと思います。ガリラヤからやってきた漁師たちには難しいことだったのではないでしょうか。
     ニコデモは、「没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た」と言います。百リトラとは、約30キロと説明がありました。米2斗、すなわち半俵を抱えてやってきた、というのです。もちろんしもべがいたのかもしれません。しかし自動車のない時代にそれは簡単なことではなかったでしょう。

     彼らは「ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻」きました。この「亜麻布」は復活の朝、大きな役割を果たします。

    そこで、ペテロともう一人の弟子は外に出て、墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。そして、身をかがめると、亜麻布が置いてあるのが見えたが、中に入らなかった。彼に続いてシモン・ペテロも来て、墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた布は亜麻布と一緒にはなく、離れたところに丸めてあった。そのとき、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来た。そして見て、信じた。
    (ヨハネ20・3~8)

     今日は備えの日。明日は主の日です。また明日はイースター礼拝です。復活の主を心から賛美し礼拝したいと思います。
     また今日は団体納骨堂において墓前礼拝が行われます。昨日の雨もあがり少し晴れ間も出てきたようです。よかったです。教会ではイースターエッグの準備が行われます。