カテゴリー: 静まり~聖書の言葉から

聖書の言葉から

  • だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか

    静まりの時 イザヤ6・1~8
    日付:2023年04月24日(月)

     ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。その裾は神殿に満ち、セラフィムがその上の方に立っていた。彼らにはそれぞれ六つの翼があり、二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでいて、互いにこう呼び交わしていた。
    「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる。」
     その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた。
     私は言った。
    「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」
     すると、私のもとにセラフィムのひとりが飛んで来た。その手には、祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭があった。彼は、私の口にそれを触れさせて言った。
    「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」
     私は主が言われる声を聞いた。
    「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」
     私は言った。
    「ここに私がおります。私を遣わしてください。」
    (イザヤ6・1~8)

     旧約聖書39巻のうちイザヤ書以降の書物は預言書と呼ばれるのだと思いますが、最初の四つを大預言書、それ以降を小預言書といいます。ボリュームの大小を指しているのだと思いますが、14章あるゼカリヤ書が最後から二番目にあるので、大小の順とばかりは言えないのかもしれません。
     預言書は、預言者を通して語られた神さまの言葉が書かれているのですが、その中にそれぞれの預言者の「召命」と言える言葉がつづられています。召命。預言者として神さまによって召された証しの言葉です。このイザヤ書では6章にそれが記されています。

     ウジヤ王の死の年。一つの時代が終わりを告げたときにイザヤは主を見ました。神さまの神々しい姿、まばゆいばかりの栄光、圧倒的な聖さを目にします。その瞬間にイザヤの唇から漏れた言葉は

    「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」(5)

     聖さからは遠く離れている自らの姿を知るのです。神に出会う、ということが、自らのありのままの姿を見ることを生み出しました。神に出会う、本当の神さまに出会う、ということは、忘我の境地に陥ることではありません。自らをありありと見ることができるようにしていただくことです。イザヤは罪に汚れた自らの姿、いま生きている世界の醜さを知ります。
     しかしそのように語ったイザヤに、セラフィムのひとりが飛んで来ました。その手には祭壇の上から火ばさみで取った、燃えさかる炭がありました。セラフィムはその燃えさかる炭をイザヤの口に触れさせます。そして語りました。

    「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り除かれ、あなたの罪も赦された。」(7)

     イザヤは神さまの火に触れていただいて聖さをいただきました。自らの罪にただ嘆くしかなかったイザヤに、神さまは一方的に触れてくださりイザヤを聖めてくださったのです。その聖めの経験をいただいたイザヤに、神さまの御声が聞こえてきます。

    「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」(8)

     聖めをいただいた者にだけ聞こえてくる神さまの御声なのだと思います。イザヤはこれに答えました。

    「ここに私がおります。私を遣わしてください。」(8)

     聖められなければならない自分であることをイザヤは告白しました。そして聖められた今、預言者として神さまからの召命に答えます。
     聖められたことからの「自信」によって召命に答えたのではありません。罪びとでしかない自分をよく知っています。神さまに聖めていただかなければ生きることのできない自らであることを知っていますから、自信などどこにもありません。これは聖められた者の「覚悟」の言葉なのだと思います。預言者に必要なものは自信ではなく覚悟です。
     預言者。伝道者、牧師。おおよそ神さまの御言葉を宣べ伝える者に必要なことは自信ではなく覚悟なのです。

     昨日は同労の先生による説教奉仕をいただき大変恵まれた礼拝にあずかることができました。感謝です。礼拝後は、いくつかの話し合いがありました。午後には文書伝道の作業、ジャーマン・アイリスの鉢の移動作業などが行われました。作業の後には、お茶をいただき交わりの時が持たれました。コロナ禍の過ごし方も少しずつ変わりつつあります。互いに弱さを持つ者たちが、神さまに出会い、その愛に出会って生きる力をいただき、その喜びのままに礼拝者として新しく生きる者となりました。それは教会に生き、教会に仕える者となったことでもありました。礼拝を基本として、教会に仕える恵み。それはそれぞれの賜物が生かされることでもあります。神さまから賜物が与えられているとすれば、それは互いのために与えられているものなのです。

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