カテゴリー: 静まり~聖書の言葉から

聖書の言葉から

  • わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません

    静まりの時 ヨハネ6・43~51〔いのちのパン〕
    日付:2024年11月21日( 木)

    43 イエスは彼らに答えられた。「自分たちの間で小声で文句を言うのはやめなさい。

     「小声で文句を言う」のをやめよ、というと、大声ならば良いのか、というとそういうことを言っているのではないと思います。以前の訳では、つぶやく、と訳されていました。共同訳2018でも、つぶやく、と訳されています。ぶつぶつ文句を言う、ということばです。
     なぜ彼らは、小声で文句を言ったのでしょう。大声では言いにくかった、相手にはっきりと伝えることが出来なかった、それはなぜか。
     どうせ聞いてはくれないだろう、聞いても心を変えることはないであろう、と決めつけていたからかもしれません。相手に対する信頼がなかったからかもしれない。
     相手は主です。主への信頼がない。だからぶつぶつと文句を言う。

     詩篇などを見ると、神さまに向かって文句を言っているかのような言葉がたくさん出てきます。決して褒められたことではないかもしれません。しかしはっきりと語られています。ぶつぶつと小声で言うことがありません。そこには神さまへの信頼があります。信頼がなければ文句は言えない。

    44 わたしを遣わされた父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとに来ることはできません。わたしはその人を終わりの日によみがえらせます。

     父なる神さまが引き寄せて下さったからこそ、イエスさまのところに来ることができました。自分の力ではない。一方的な神さまの御力によって、信仰者となった。主の御許に行く者は、終わりの日によみがえらせて下さいます。主にある者は、復活の希望をいただきました。死はもはや終わりではありません。

    45 預言者たちの書に、『彼らはみな、神によって教えられる』と書かれています。父から聞いて学んだ者はみな、わたしのもとに来ます。

     イエスさまのもとに来る者とは、父から聞いて学んだ者である、とも言われました。父が引き寄せてくださる者とは、父から学んだ者である、と。
     父から学んだ、ということを、神に教えられた、とも言われます。学ぶ、というと、自分の能動的な行動です。教えられた、ということ、教えてくださる方の行動が主となって、それを受動的に受けること。この二つのことが、一つにならなければ、学ぶということが起らない。すなわち父のもとに行くということ、永遠のいのちをいただく、ということが実現しない。
     聖書から学ぶということ自体に、すでに父に引き寄せられる、ということが起こっている。

    46 父を見た者はだれもいません。ただ神から出た者だけが、父を見たのです。

     神から出た者。すなわちイエスさまだけが父を、父なる神さまを見たのです。人間には見ることができなかった。もし見たと言うならば、それは父なる神とは似て非なるものである。

    47 まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。

     信じるならば、永遠のいのちをいただく。信じるという私の行為の結果、永遠のいのちをいただける。そう理解することが一般的かもしれません。
     しかしここでは、信じる者は永遠のいのちを持っている、と書かれています。すなわち信じる、ということの中に生きている者は、すでに、永遠のいのち、を持っている。今こうして生きているいのちは、もはや以前のものではない。永遠のいのちなのだ、と。

    48 わたしはいのちのパンです。
    49 あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
    50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。
    51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」

     イエスさまご自身が、いのちのパン、である。天から下ってきたパンである。かつて荒野を旅したイスラエルは、飢え渇きを、天からのパン、すなわちマナで癒された。しかし彼らはやがて死を迎えた。しかしイエスさまを食する者は、死ぬことがない。永遠に生きる。
     このパンは、それを食する者だけが永遠のいのちに生きるだけではない。このパンは、世のための、わたしの肉である。世を生かすために与えるものである。
     このパンを食する者に与えられた永遠のいのちによって、私だけではなく世が生かされる。

     使命、という言葉がありますが、命を使う、と書きます。いのちを使うと、いのちが消費されて、生きる力を失う。しかしこのいのちは、永遠のいのちである。消費しても決して尽きることがない。なくならないどころか、使えば使うほどに、増えていく。あの5千人の給食、4千人の給食で、人びとに配られたパンのように。

     教会生活に生きてる者にとって、ここに書かれていることが聖餐式のパンを指していることは明らかです。聖餐のパンをいただいて、汲めども尽きないいのちに生きていく。それはまた共に生きる人びとを生かしていく。この世界を生かしていく。パンをいただいた者は、そのために遣わされて行くのです。