第三日目
2017年10月13日(金)クリスチャンの教師が、単に機敏な頭脳と大きな知識をもった教育者以上のものでなければならないことは、言うまでもない。もし彼らに神の同労者である特権が与えられているならば、彼らは自らほんとうのクリスチャンでなければならない。
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わたしの仕事が一般の人々の目を引くにはあまりにもとるに足らないようでも、わたしはいつも希望にみたされていたい。
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キリストは金曜日に十字架にかけられ、次の日は墓の中に横たわって何事も起らず、彼の敵は彼を笑った。しかし、彼が死人の中からよみがえられた第三日目があったのである。・・・この第三日が、わたしやわたしの仕事のためにさえもとっておかれているのだ、とわたしは信じている。〔河井道〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
313頁
「もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。」(ローマ6・5)
忍耐と我慢の違いを少し考えるとすれば、我慢は我を慢心すると書きますのでひたすら自己中心ですが、忍耐はそうではありません。神さまに焦点が当てられています。自己中心にこの世の知恵のみの中にいる我慢に対して、忍耐は神さまが中心におられるので、そこには希望があります。どのような絶望の中にあっても希望に生きるのが忍耐です。
復活を宣べ伝える聖書は私たちにその希望を語ります。そして忍耐に生きる道を教えます。
現代の教育活動は子どもたちが成長していくのに、その道の障害をできるだけ取り除くことを考えているところがあります。しかしそれは忍耐することを教えません。ですから結果、希望を学ぶことができません。もちろんいたずらな障害は取り除くべきですが、人生には障害があること、困難があること、そして最後には死があることは歴然とした事実です。教育の目的は、そのような人生を受け止め、そのうえで自分らしく、そして人びとと仲良く、この社会に仕える喜びを教えることでしょう。