カテゴリー: 静まり~聖書の言葉から

聖書の言葉から

  • 私たちは圧倒的な勝利者です

    静まりの時 2022年9月27日(火)
    ローマ8・31~39

    「31 では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
    32 私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
    33 だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。
    34 だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。
    35 だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
    36 こう書かれています。
     「あなたのために、私たちは休みなく殺され、
      屠られる羊と見なされています。」
    37 しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
    38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、
    39 高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
    (ローマ8・31~39、新改訳2017)

     「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか」。

     いままで語られてきたことの結論が語られます。そうして8章が終わります。ここでローマの手紙は一段落をします。

     いままで語ってきたことから一つの結論が出てくる。それは、神さまは私たちの味方である、ということ。神さまはずっと変わることなく私たちの味方だったのですが、私たちのほうが神さまに敵対して歩んでいました。そこに和解がもたらされたのです。しかも、本来ならば、敵対していた私たちの方が和解の手を差し伸べなければなりませんでしたが、敵対している私たちにむかって、神さま自らが和解の手を差し伸べてくださったのです(ローマ5・10)。
     神さまが味方となって下さったのです。そのために神さまは、御子イエスさまを惜しむことなく死に渡されたのです。ですから、罪の赦しに関してならば、どんなことでも惜しみなく与えてくださる。それが神さまなのです。
     だれが私たちを訴えるのでしょうか。なにが私たちを、罪あり、とするのでしょうか。

     信仰生活は戦いです。神さまの愛から引き離そうとすることとの戦いです。しかしキリスト者は、「私たちを愛してくださった方によって」、圧倒的な勝利者なのです。

    「苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか」。

     実際的な苦難があります。苦難が起こると、神さまの愛への信頼が揺らぐでしょうか。神さまを信じているのに、どうしてこのようなことが起こるのだろうか、と。しかし神さまの愛から私たちを引き離すことはできません。
     また、私たちを神さまの愛から引き離そうとするのは実際的な苦難、目に見えるものだけではありません。神さまの愛から私たちを引き離そうとする目に見えないさまざまなものもあります。

    「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」。

     「死」が私たちを神さまの愛から引き離そうとします。死を前にして神さまの愛が見えなくなるということが起こります。また「いのち」も私たちを神さまの愛から引き離そうとします。いのちよりも大切なものに出会わないと、いのちが神のようになってしまい、神さまの愛がまた見えなくなってしまいます。「御使いたち」「支配者たち」、私たちよりも力ある者。「今あるもの」、いま直面しているさまざまな事柄。「後に来るもの」、将来への不安。「力あるもの」「高いところにあるもの」「深いところにあるもの」、あらゆる目に見えない勢力、さらには「そのほかのどんな被造物」も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。
     これがここまでパウロが語って来たことの結論なのです。

     まっすぐに聖書を読む、ということは、この結論にたどり着くということです。聖書を読んでもこの結論にたどり着かないならば、その聖書の読み方は、間違っているということになります。聖書的に生きる、ということは、この結論をもって生きる、ということです。聖書の字面(しづら)にとらわれて、いわゆる「論語読みの論語知らず」となってしまっては、聖書を読んだことになりません。
     教会は福音を語ります。福音とは「良い知らせ」「グッド・ニュース」のことです。教会の礼拝、さまざまな活動においても、この「福音」が語られます。福音が語られるために、さまざまな配慮がなされます。そうして教会を訪れる人は、福音に出会います。どんなことがあっても、神さまは私の味方である、神さまの愛から私は引き離されることはないのだ、と安心して教会から出発していくのです。