カテゴリー: 静まり~聖書の言葉から

聖書の言葉から

  • わたしは人間の綱、愛の絆で 彼らを引いてきた

    静まりの時 ホセア11・1~4
    日付:2023年02月20日(月)

    1 「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、
     エジプトからわたしの子を呼び出した。
    2 彼らは、呼べば呼ぶほど
     ますます離れて行き、
     もろもろのバアルにいけにえを献げて、
     刻んだ像に犠牲を供えた。
    3 このわたしがエフライムに歩くことを教え、
     彼らを腕に抱いたのだ。
     しかし、わたしが彼らを癒やしたことを
     彼らは知らなかった。
    4 わたしは人間の綱、愛の絆で
     彼らを引いてきた。
     わたしは彼らにとって
     あごの口籠を外す者のようになり、
     彼らに手を伸ばして食べさせてきた。
    (ホセア11・1~4)

     姦淫の女ゴメルを愛しなさい、という何ともショッキングな言葉が登場するホセア書。旧約聖書において新約聖書的愛が語られていると紹介される小預言書です(私自身は旧約聖書には全体を通して新約聖書の愛が記されていると思っていますが・・)。ここにもひたすら罪びとを愛そうとされる神さまの愛が記されています。

     「わたしは人間の綱、愛の絆で彼らを引いてきた」と神さまは言われました。神さまに導かれる、ということを私たちはいろいろと想像しますが、聖書の神さまは、愛の絆をもって導いてくださるのです。強制されることがないので、私たちはいつも神さまの導きから離れてしまいます。しかしそれでも忍耐をもって導こうとしてくださいます。
     「彼らに手を伸ばして食べさせた」。共同訳では「身をかがめて食べ物を与えた」。神さまは私たちに食べ物を与えてくださる、いのちの糧を与えてくださるお方ですが、身をかがめて与えてくださるお方です。ご降誕に、十字架に、そして復活に、私たちはその姿を発見します。
     今日もこの神さまに愛に支えられて一日を過ごします。

     昨日は主の日、礼拝の日でした。インフルエンザで欠席が続いた子どもたち、また先週に来られた新来会者も、教会学校から参加してくださり、少し賑やかな教会学校となりました。礼拝後は各会も行なわれ、報告とともによい交わりの時が与えられました。感謝です。教会ハンドブックがつくられ配布されました。いくつもの誤字や表現のおかしなところ、時代にあっていないところが発見されています(笑)が、徐々になおしていきたいと思います。ご意見をお待ちしています。私たちの教会が福音主義の教会としてだれもが安心して集うことのできるところとして前進できますように引き続き祈っていきましょう。
     この間の土曜日の夜にBSプレミアムで、ふたりの女優さんがそれぞれドイツとフランスの修道院に数泊するという番組を放映していました。たまたま見ることになったのですが、女優さんが修道女の歌う素朴な賛美歌に涙する場面もあり、沈黙の中にあふれている神さまの恵みが、画面からにじみ出ているようでなかなか興味深い番組でした。

    「沈黙と賛美は、譬えて言えば、樹木の地中の根っこに対する、地上の幹や枝葉の関係のようなもので、対立する概念ではない。樹木と根っこは一体のものであり、切り離すことはできない。賛美と沈黙もこのようなものである。
    『賛美、それは沈黙のあふれ』という言葉は、心の奥の留めておくことのできない、内なる促し、沈黙のあふれとしての賛美の歌が、私たちに残された唯一の、命の源である神への賛美の捧げものであるという意味である。静の中に動があり、動の中に静がある。『静中、動あり』であって、沈黙と賛美は、静と動の関係である。静と動の円環に本来の人間の姿がある。」
    (新垣壬敏、『賛美、それは沈黙のあふれ』、教文館、2001年、14頁)