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  • 「わたしが来たのは、・・・罪人を招くためである」。 マルコによる福音書2章17節

    〔弟子の召命〕

    2015年1月23日(金)

    「徴税人と罪人」のために、俗物ども(この世の子ら)のためにイエスは神のおそばに立っておられます。そこで、そしてそこからイエスは「彼らの」事柄を導かれる。これがイエスの正義です、それを伝えるために、イエスは弟子たちを召し、派遣します。弟子たちもこの世の子らに敵対するのではなく、ただ彼らのために存在し責任を持つことができます。
    ・・・
    イエスの呼び出しはいつも罪人たちの中からの呼び出しです。それはイエスの方へ、イエスに従う者たちの中への召命として、神の自由な恵みの告知への召命であるからです。召命は、罪人たちの、全く恵みにのみ頼る者たちの口においてのみ、恵みなのだと信頼できる、信じるに値する、聞き取ることができるように生じうるのです。

    カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
    小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、61f。

    神さまの一方的な恵みによって救っていただいたということを知り、受け入れることによって人間は救われます。
    神さまの一方的な恵みによって救っていただいたということを知るためには、自分自身が全くの罪人であるということがわからなければなりません。
    全くの罪人と何か。全くの罪人であるということを知るということはどういうことであるのか。

    聖書の教えを守ることは、救われるための条件ではないということです。
    一方的な恵みによって救っていただいたということへの感謝の中で、聖書の教えを守りたいという願いが起こるのです。その結果として聖書の教えを守るということが起こりますが、それは救われるための条件では決してないのです。

    これが分からない限り聖書の救いは分からないし、救われてはいないということでしょう。なかなか厳しいことです。

    (祈り)
    神さま、罪人である私を赦して下さい。一方的な恵みを感謝します。