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  • 召命を受けた者といまだ召命を受けていない者

    〔すべての人びとへの召命〕
    2015年1月31日(土)

    私たちは如何なる人をも―たとえばその生活方法の悪い習慣として、たとえば彼の行為が間違った言動と人を堕落させるとして、たとえば彼によって表現される理念と確信が我慢ならないとして―明らかに召命されていない人、キリスト者ではない者、実に非キリスト者、反キリスト者の特徴をよく表しているように見えると、そのように見なしてはならないのです。

    ・・・

    召命を受けていない者たちに対しては召命を受けた者の限りない誠実さだけが可能なことです、すなわち、無条件に喜んですること、彼ら今日の異邦人たちの中に、今日すでに明日の兄弟たちの姿を見ること、そして彼らをそのような者として―単に人としてではなく(一般的な人間愛は旧約聖書にも新約聖書にも存在しません!)愛することであります。

    カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
    小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、78ff。

    キリスト者になるということは、神さまからの一方的な愛を受け入れるということですから、それ自体神さまの一方的な愛のみ業です。キリスト者になったということが特権であるとするならば、その特権をいただいたということも、自分の側の何かではなく、神さまの一方的な愛のみ業です。私たちには誇るところは一つもありません。

    ですから、キリストの愛を受け入れたといいつつもその言動がそうとは言えないような人に対しても、いまだキリストの愛を受け入れていない人に対しても、私たちはただ「誠実」に愛を傾けることだけが大切なことなのです。神さまはそれを私たちにお望みになっておられるのです。

    すべての人を招いていてくださるイエスさまの愛を本当に信じているのか、それともある一部の人に対してだけの、あるいは自分に対してだけの愛と思いこんで、その陳腐な愛に自己満足しているだけなのか、それがキリストの愛だとしているのか。

    すべての人を招いておられるイエスさまの愛を学び続けたいと思います。
    (祈り)
    神さま、あなたの愛を教えてください。愛のない私を赦して下さい。どうかあなたの愛で満たしてください。