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  • 神の事柄(こと)

    〔我らの御父 主の祈り〕
    2015年2月26日(木)

    この願いの導入が、ある意味で十戒の導入と一致していることが見て取れます。
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    最初の三つの願いは最初の四つの戒めと合致し、最後の三つの願いは第五から第十までの戒めと合致します。
    「三つの最初の願い」の中で主題となるのは神の栄光です。
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    イエス・キリストにおいて神は自らを神として明らかにされていますが、完全に自由であり、全くご自身で十分であるにもかかわらず、それでもお一人でいることを欲しません。神は人なくしては、行動し、存在し、生き、配慮し、働き、戦い、勝利を収め、支配し、勝鬨(かちどき)を挙げることを欲しません。従って神はご自分の事柄が自らのものに留まらず、それが人の事柄にもなるよう望まれます。
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    神は、神の働きに、教会と世界への神の統治に参加するように私たちを招いておられます。
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    これら三つの最初の願いに、自由、喜び、快活と他の請願の確実性がかかっています。
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    私たちが神の意図に、自らの事柄と全ての他者の事柄を共に含む神の事柄に「同意」する時のみ、神と共に生きることができます。さもなければ、私が空中で直立しようとするようなものです。歩くためには大地が必要です。
    祈りのおいてこれら三つの最初の願いという大地を歩むのです。

    カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
    小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、125f。

    「御名をあがめさせたまえ、御国を来らせたまえ、御心の天になるごとく 地にもなさせたまえ・・・」

    私たちは主の祈りの最初の三つの祈りにおいて、私たちがこの人生を歩むための大地をいただくのだ、とバルトは言います。大地がなければ、どんなに立派な足を持っていたとしても立つことも歩むこともできません。

    私たちのどんな願いも、この三つの願いが先立って初めて平安と実りに満ちたものとなります。

    自分の願う願いがすべて実現されれば、私たちの人生は祝福なのでしょうか。歴史を振り返ると自分の願いのままに生きようとして、自分を、隣人を、世界を滅びに導いてしまった人物を数多く発見することができるのではないでしょうか。

    私の願いの中心に神さまをおいて、はじめて私たちの願いは私の人生を祝福するものとなるのです。

    (祈り)

    神さま、あなたのご支配の中に生かせてください。