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  • 「これはわたしの体である―これはわたしの血である」(マタイによる福音書26章26節、28節)

    〔聖餐〕
    2015年3月12日(木)

    聖餐における決定的な出来事は、回想ではなく、イエスの贖罪の死が持つ「成果」へ現実に参加することです。
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    私が命をあなたがたのために与えたことで、命はあなたがたのものとなり、あなたがたは死ぬ必要はなくなって生きることが許される、悲しむ必要はなく、「歓呼しつつ」生きてよい。
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    それが生ずるのは本当に自明のことではなく、むしろ極めて本当とは思えず、不思議であり―人の側から、キリスト者の側からも不可能で、だが神の側からは可能であり、可能であるだけでなく、むしろ現実的で―それは信仰においてのみ生じ、信仰においてのみ認識されえますが、まさに信仰において明白に確かに認識されうるのです。

    カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
    小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、149f。

    パンは、どんなに祈ってもそれが実質的にイエスさまの肉に変化するのではありません。ぶどう汁も、どんなに祈っても実質的にイエスさまの血に変化するのではありません。ただ信仰によって、パンはイエスさまの肉であり、ぶどう汁はイエスさまの血なのです。

    私たちはこの聖餐式におけるパンとぶどう汁を食することによって、罪からのあがない、永遠の命を確かにしていただけます。喜びと希望に生きる者であることを確かにしていただけるのです。

    (祈り)

    神さま、あなたの命を今日もいただき生かされることを感謝します。