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  • 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。 マルコによる福音書15章34節

    〔イエスのご受難の前にある人間〕
    2015年4月1日(水)

    この一人の人に向けられた神の扱いは何とむごく、辛く、恐ろしいことか、この人を神は、和解と救いの業を成就するために定められ、そのためこの人は身をおささげになりました。このことは決定的に神の和解の働きに必要なのです。イエスの苦悩と死は、悪しき偶然でも「なく」、どこからかイエスを圧倒する「運命でもありません」。
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    「わが神、わが神、なぜわたしを見捨てられたのですか」。それは神において死んでいく人の「死の叫び」であると同時に、神において命に入っていく人の「誕生のうぶ声」でもあります。
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    このようには神はいかなる人も見捨てなかったし、神は今も誰をも見捨てず、この人を見捨てたようには誰をも見捨てないでしょう。

    カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
    小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、184ff。

    神さまは、イエスさまに背を向けられました。イエスさまを見捨てられました。
    イエスさまこそ、義であり聖であるお方です。どのような罪も知らず、罪も犯さず、神さまに対して完全な従順に生きられました。神さまに対して愛と感謝をもって生きられました。そのイエスさまを見捨てられたのです。

    これは偶然でも運命でもありません。神さまの御業です。

    こうしてすべての人のための救いの道が開かれたのです。神さまはもはやだれも見捨てることがないということが明らかにされました。

    私たちは過去、現在、将来において罪を犯す罪びとです。しかしその私たちを神さまはもはや決して見捨てることをなさらないのです。

    (祈り)

    神さま、恐ろしいほど完全に見捨てられてくださったイエスさま、感謝します。