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  • 「どんな律法によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです」。 ローマの信徒への手紙3章27節

    〔信仰によるのみ〕
    2015年4月28日(火)

    律法、宗教、体験と言う者は人間の経験、知識、感情、行為、「仕事」を誇っています。
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    「仕事の法則」に基づいて人の「誇ること」は止まず、神の義の現実は始まりません。
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    信仰は信仰としてのみ残ります。自己評価なしに(自己否定という自己価値なしでも!)、自己の力なく(謙虚という自己の力なく!)、神の前でも人びとの前でも、偉大であろうとすることなしに。それは、「誇る事」が止み、神の現実の義が始まる大地、秩序、光であります。
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    神が人間の、そしてあらゆる人間的なものの創造者であられ、その解放者であられ、そこでは人間が自分自身と全ての人間的なものを神に捧げる、そのところであります。

    カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
    小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、244ff。

    信仰によって歩むとは、行いによって歩まないということです。しかし時々、信仰という行いによって歩むということが語られているかに思える場面に出合います。信仰という行いが大切であると語る説教者に出会います。確かに聖書が語られているのですが、それは律法主義でありパリサイ主義であり、イエスさまが最も悲しまれた宗教であり、そして自分という最大の偶像を拝む偶像礼拝です。

    まことの信仰者は、ただひたすら「自分自身と全ての人間的なものを神に捧げる」ところとしての神さまを信じています。

    (祈り)

    神さま、あなたのもとに真実に憩うことができますように自分自身と全ての人間的なものをあなたのもとに捧げさせてください。