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  • 恩寵は唯一のものである

    〔自由な恵みの福音〕

    2015年6月2日(火)

    「神の自由な恩寵・恵み」。恵みは「自由」ですから、その玉座と席をイエス・キリストご自身の内にのみ持ち、保ち続けます。
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    さらなる恵みを自らと他者のために得ることができるもとであるかのように、人間にこのような恩寵の力を帰すること、これらはイエスの御業の否定であり、忌々しい偶像礼拝に他なりません。
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    恵みによって恵みを信じる人間こそが、自らの愛と希望、自らの忠実な行為と苦悩でもって、この考えを愕然として振り払うでしょう。
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    恵みはその完全な自由において、この包括的な慈しみであるという点で、恵みです。すなわち、イエス・キリストこのお一人からまずご自分の証人たちに、次にこれら証人によってキリストの教会に、次に教会を通じて、本当に「すべての民に」向けられる恵みです。

    カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
    小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、324ff。

    イエスさまにとって代わって人間が恩寵の力を持つかのような信仰は偶像礼拝です。牧師は神さまの恵みをただイエスさまから人びとに注ぐ「管」です。大切なのは牧師ではなくイエスさまご自身です。
    牧師はこの「管」に徹するときに、確かな恵みを人びとに注ぐことができます。

    牧師が通りよき「管」であり続けるために、教会があり、聖礼典があり、講解説教があります。主の祈りがあり、使徒信条があり、十戒があります。礼拝があり、賛美があり、牧会祈祷があり、聖書朗読があります。献金感謝があり、頌栄があり、祝祷があります。

    牧師が通りよき「管」であり続ける牧会こそ、真の牧会であり、魂への真の配慮です。

    (祈り)
    神さま、イエスさまの恵みの通りよき管とならせてください。