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  • 私は来る、そしてどこからかを知らない・・・

    〔開始の時〕

    2015年1月6日(火)

    最初のもの、私たちの時間の始まりは、私たちが「出てきた」区切られた場所かつその境界であり、私たちがいまだいたことのないところです。
    ・・・
    何ゆえに私たちは自らの終りを恐れるのでしょうか。やはり次の理由からでしょう、私たちはそのようなものを一つの恐怖のように「私たちの始めから」心に抱いている、いわば持ち合わせているからであり、それは私たちの生命と時間が逆戻りできない方向に従って、あの別な姿を受け入れ、終りに対する恐怖になる、だがそれはあの隠された姿においてもこの明らかな姿においても本質的には一つで同じものです。私たちの命に置かれた限界枠に対する、私たちの時間につけられた期限に対する恐怖です。私たちの生命はかつて一度始まったのですから。

    カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
    小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、32f。

    神さまが天と地を創造されたその現場に人間はいませんでした。
    私という人間が存在し始めた、神さまによって造られた瞬間に、その現場に私はいませんでした。
    自分を取り巻く世界や自分自身が、造られた時のことを私たちは知らないのです。

    その知らないところにおいて、時間を神さまがお造りになられました。
    造られた者である私たちは、私たちの知らないところで始まった時間の流れの中に置かれています。この時間の流れは私たちの力ではどうすることもできません。
    ただ「終わり」に向かって進んでいます。

    この「終わり」も始まりと同様、私たちはそれがどのようなものであるかを知りません。どのようなタイミングで来るかを知りません。
    知らないものに向かって毎日が進んでいるのです。そして進んでいるということ自体も、自分の力で進んでいるのではなく、自分の力ではない力で進んで行っているのです。

    目的地に向かってカヌーを漕いで進んで行くというよりは、知らないうちにカヌーに乗せられ、そのカヌーが進んで行く方向も知らず、自分で定めることもできす、さらに今進んでいるということがいったい何によって進んでいるのかも知らない、なんと恐ろしいことでしょう。しかしそれこそ私たちの人生なのではないでしょうか。

    そのような私たちに、聖書は、創造主のおられることと、今もそのお方が愛をもって導いていてくださることと、向かっていく先もその方がご存じであるということを知らされました。「世の終りまであなたがたと共にいます」(マタイの福音書)。

    何という恵みなのでしょう。

    (祈り)
    神さま、創造主であるあなたがきょうも共にいてくださり、これから向かっていく先もご存じであり、終わりの時までも共にいて導いてくださることを感謝します。