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  • キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします

    静まりの時 第一ヨハネ3・1~12〔キリストの愛のうちに〕
    日付:2025年05月12日(月)

    2 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。
    3 キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。

     「この望み」とは前節の、「キリストが現れたときに、キリストに似た者になる」ということだと思います。主にある者はやがて、キリストに似た者となる、という希望をいただいています。
     この希望をいただいている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。

     この個所の「キリスト」という言葉についてですが、新共同訳では「御子」、共同訳2018では「神」、口語訳聖書では「彼」となっています。原文は人称代名詞ですので、いずれも可能なのだと思います。

     私たちは、いつかまことの神である御子イエス・キリストに似た者とされます。その希望を持っている者はすべて、今この時自らを清くします。それはキリストが清いお方であるからです。
     やがて清くされるならば、なにもいまわざわざ清くなろうとする必要があるだろうか。そう考えてしまうこともあるかもしれません。しかし日々キリストとともに歩むことを喜びとしているならば、そしてそのキリストが清いお方であることを知っているならば、おのずと自らを清くしようとするのではないだろうか、と思います。
     救われるために自らを清くするというのではありません。救われているからこそ、自らを清くしようとするのです。救いは出発地点でもあります。