• いつまで、どっちつかずによろめいているのか

    静まりの時

    • テーマ:道をえらぶ
    • 聖書箇所:第一列王記18・20~29
    • 日付:2026年02月10日(火)

    21 エリヤは皆の前に進み出て言った。「おまえたちは、いつまで、どっちつかずによろめいているのか。もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え。」しかし、民は一言も彼に答えなかった。

    まことの神の預言者エリアと異教の神バアルの預言者との信仰の闘いにおいて、エリアはイスラエルの民に問いました。「もし主が神であれば、主に従い、もしバアルが神であれば、バアルに従え」。

    まことの神に従うのか、それとも異教の神バアルに従うのか。どちらかを選択せよ、と問いました。彼らは「一言も彼に答えなかった」。

    イスラエルの民は、バアルに従うといったのではありませんでした。一言も答えなかったのです。かれらは「どっちつかずによろめいていた」のです。「バアルに祈れど 安きはあらず 御神に仕うる 勇気も出でず いつまで二つの 間を迷うか 今日こそ定めよ 汝が行く道を」(新聖歌410、2節)。

    この「二つの間を迷う」ということが、私たち罪びとの問題点なのだと思います。積極的にバアルに従うとは言えないのです。バアルに祈っても平安がないことを経験を通して自分自身がよく知らされているからです。なぜなら私たちはみな神さまに造られた存在だからです。神さまのもとに帰ることなしにまことの平安は得られません。

    であればまことの神さまのもとに帰ればよいのですが、それも潔く従うことができない。まさに勇気がないのです。神さまの愛の御旨(胸)に飛び込む勇気がない。 なぜか。

    問われているのは、神さまの愛を信じる勇気、すなわち信仰です。神さまの愛への信頼がなぜ希薄なのか。それは自分自身の信仰力のようなものを信じようとすがりついているのだと思います。

    私たちは罪びとなのです。その罪びとの中にある信仰力などを頼りとして生きようとしても、平安が生まれるはずがありません。放蕩息子の決意のように、「父のもとに帰ろう」と決意するならば、平安の道がはじまります。

    イエスさまも問われました。

    3 イエスは彼らに答えられた。「わたしも一言尋ねましょう。それに答えなさい。

    4 ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、それとも人から出たのですか。」

    5 すると、彼らは論じ合った。「もし天からと言えば、どうしてヨハネを信じなかったのかと言うだろう。

    6 だが、もし人からと言えば、民はみな私たちを石で打ち殺すだろう。ヨハネは預言者だと確信しているのだから。」

    7 そこで、「どこから来たのか知りません」と答えた。

    8 するとイエスは彼らに言われた。「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに言いません。」

    (ルカ20章)

    どっちつかずではなく、神さまに従う道を選択したいと思います。主は勇気をもって主を選択する者に確かに答えてくださいます。

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    ろうばい、の季節を迎えています。