牧師の日常と雑感
静まりの時 第一ヨハネ4・13~21〔キリストの愛のうちに〕
日付:2025年05月15日(木)
18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。
愛と恐れとは相容れない関係である。愛があるならば、そこには恐れはない。逆に恐れに支配されているならば、そこには愛はない。
恐れとはいったい何か。さまざまなものに私たちは恐れを抱く。恐怖心を持つ。
「恐れには罰が伴う」。罰によって生まれる恐れ、恐怖心。罰をなぜ恐怖するのか。それは自らの中に依然解決されない罪があるからか。あるいは解決されているにも関わらず、その影響が今も残っているからか。
恐れから解放されるためにも、愛に満たされる。愛において全きものとなる。信仰生活の一つの目標です。
新改訳聖書は「恐れる者は、愛において全きものとなっていない」と訳されています。
これに対して共同訳2018などは「恐れる者には愛が全うされていないからです」と訳されています。意味は同じようなものですが、注目したいのは主語が何であるか。
新改訳ではこの節の主語は「恐れる者」です。すなわち私たち人間のことです。
それに対して共同訳2018などでは主語は「愛」です。愛自体が主体となって、私たち恐れる者において全うされていないと訳しています。
新改訳では、主体が私であり、愛が全うされるにおいて人間の働きが強調されているように感じますが、共同訳などでは、愛そのものが、私たちの弱さを乗り越えて力強く働くように感じます。
「愛が全うされていない」とはどういう意味か。バルバロ訳では「完全な愛をもつ者ではない」と訳しています。愛深い行動がなされたとしても、その行為者の中に何らかの「恐れ」があるならば、その愛は完全ではない。罰を恐れてなされる愛の行動は完全ではない。
愛は恐れに縛られてではなく、喜びと感謝によって行為されるものである、とうことかも知れません。
神は愛である、と16節で語られた文脈の中にあるこの節ですから、「愛」の語句の代わりに「神」を入れて考えてみてもよいかもしれません。
「恐れる者は、〔神〕において全きものとなっていないのです。」(新改訳)
「恐れる者には〔神〕が全うされていないからです。」(共同訳2018)
神さまに満たされること。そして恐れから解放されること。そうして愛が全うされていく。キリスト者の信仰生活は、そのように期待されています。
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