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  • たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます

    静まりの時 第一ヨハネ3・13~24〔キリストの愛のうちに〕
    日付:2025年05月13日(火)

    18 子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。
    19 そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかでいられます。
    20 たとえ自分の心が責めたとしても、安らかでいられます。神は私たちの心よりも大きな方であり、すべてをご存じだからです。

     「ことばや口先」だけではなく「行いと真実」をもって愛する。そうすることによって自分自身が「真理に属していること」を知り、「神の御前で心安から」でいられる、と聖書は語ります。
     聖書は、行いによるのではなく信仰によって義と認められる、と語りますので、このヨハネの手紙のことばを、真実な行いによって、自らが真理に属していることを知り、それによって平安が得られる、と読めば、間違った読み方になるのだと思います。
     ではどのような読み方をしなければならないのか。

     自分の行いではなく信仰によって義と認められた者は、おのずとその生き方に変化が現れる。つまりその行いに変化が現れる。その変化とは、何よりも神さまへの愛、そして隣人への愛である。そのように具体的な愛の行動によって、すでに義と認められていることを知ることができる、そうして神さまの御前で心安からでいられる。
     隣人への愛に生きたとしても、心が責められることがある。ちやほやすることではなく、真実の愛に生きようとすれば、世に憎まれること(13)も、自分の心が責められることも起こってくる。
     そこで生まれる「神の御前での平安」とは、たとえ「自分の心が責めた」としても「安らか」でいられる。なぜなら神さまご自身は「私たちの心よりも大きな方」であり、「すべてをご存じ」だからである。平安の基準は神さまにある。
     つまり、ここで言われている「平安」は、私の心の状態や感情的な印象を超えたものです。神さまから与えられる平安、信仰による平安、その平安を受け取る覚悟、平安の道を選択する覚悟、意志を現しているように思います。私の心に主軸を置くのではなく、神さまの御心に主軸を置く。まさに自分中心から神さま中心へと、からだ全体の向きを変えていく。そういう信仰の生き方のことです。「私たちの心よりも大きな方」である神さまにすべてをお委ねしていく。「すべてをご存じ」の神さまに全幅の信頼を置いていく。
     ですから結局、神さまが私の内にとどまっていてくださることは、御霊によって分かる。あるいは御霊によらなければ分からないことなのだと思います。平安は、神さまの御業、神さまの奇跡なのです。

    24 神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまります。神が私たちのうちにとどまっておられることは、神が私たちに与えてくださった御霊によって分かります。