愛についても同じである。人類が子孫を残すためにあるのだとか、生物学的な必然性としてあるのだ、などと教えられてきた。そして私もそういわれればなるほどと思う。だが、愛の行動を、自分のせいではなくて、それらのもっともらしい理由のせいだとすると、私は愛する気力もなくなってしまうにちがいない。それでなくても、誰かが自分の愛を三つの理由で説明しだしたりしようものなら、滑稽なものになってしまうものなのだ。もしあなたが、誰かから求愛されて、「ぼくがあなたを愛するのは、あなたの顔が美しいせいですよ。嘘だと思うならA子さんとくらべてごらんなさい。第二にぼくがあなたを愛するのは、あなたがそろばんがうまいせいですよ、何百人といるうちの会社で第五位なんですからね。ぼくのあなたを愛する第三の理由は、これはとても素晴らしいものなんだ。それはB君があなたのことを批評して、頭がいいといったせいなんだ。」
といわれたらどうだろう。むろんどの理由もあなたを賞めているのだから嬉しいという気がなさるだろう。しかしきっと心の奥の方では、このひとはほんとうにはわたしを愛していないのだという空虚なものを感じられるにちがいないことも確実なのである。
愛というものは、最後には愛しているというより仕方のないものであるからだ。愛は、愛それ自身をもってしか説明できないものなのだ。というのは、愛は、どんな理由も必要としないだけでなく、むしろすすんでそのような理由を拒むものなのであるからだ。椎名麟三、『私の聖書物語』、中央公論社、1959年8月30日発行。13ページff
「愛はどんな理由も必要としないだけでなく、むしろすすんでそのような理由を拒むものなのである」
現代社会に生きる私たちは、あらゆる行動に理由を発見しないといられないようになっています。理由がない。そのような状況に平安でいられること。理由など求めなくても心穏やかに生きること。愛に生きるということはそういう部分を確かに含んでいるのでしょう。
理由をすべて説明できる生き方には愛がないのかもしれません。
わけの分からないということは大切なことなのですね。