, ,

聖書は客観的に神の言葉

まず、我々正統主義の視点から言えば、聖書に記されているのは客観的に神の言葉である。聖書が語っていることは、実際に神が我々に語っていることとされる。誰かが読もうが読むまいが、理解しようがしまいが、受け入れようが受け入れまいが、その事実に変わりはない。これに対し、新正統主義によると。啓示は、第一義的には情報を伝達するものではない。啓示とは、神ご自身の現臨なのである。したがって、聖書が神の言葉であるというのは客観的な事実ではない。聖書は神の言葉と“なる”(become)ものなのである。啓示的出会いが終われば、聖書はそれを書いた人の言葉に戻る。しかし、本書の主張する正統主義的な見解によれば、聖書は神のメッセージである。聖書が語っていることは、神が我々に語っていることである。それは、誰かが読むか、誰も読まないか、聞くか聞かないか、理解するかしないか、応答するかしないかということとは関係ない。聖書が啓示であるということは、それにどのように反応するかによって決まるわけではない。聖書は啓示“なのである”。

エリクソン、『キリスト教神学 第1巻』、「第2部 神を知ること、第12章 神の言葉の力:権威」、319ページ

聖書は客観的に神さまの言葉であるということですね。

10代のころに親しんだQueenのアルバムの一つ「A Night At The Opera」を妻が借りてきてくれました。曲の一つ一つはもとより、曲のつなぎ、フリディ・マーキュリーのボーカル、ブライアン・メイのギター、ジョン・ディーコンのベース、ロジャー・テーラーのドラム、一気にタイムスリップです。Queenとの出会いによって私の心の中にQueenが形造られ経験となりました。それが甦ってきたのです。しかしそれでもQueenは客観的にQueenなのです。(ちょっと違うような気がしますが。また卑近な例で大変恐縮です。どうか軽く読んで下さい。)

IMG_0404IMG_0003


投稿日

カテゴリー:

, ,

投稿者:

タグ: