今回もしばしは涙をぬぐいながら読み進めることとなりました。美術とともに聖書やキリスト教信仰に対する理解があるとさらに深く心に響くのではないかと思いました。ということで私にとってはとても心に響く本でした。
ふと、無風のはずの礼拝堂の中にかすかな風が起こった。
オルガンに立てかけられた楽譜の頁をかすめ、枢機卿たちの法衣の裾を揺らし、使節たちの着物の袖に触れる微風を、マルティノは感じた。その風は、宗達の鬢をそよめかせ、通り過ぎていった。
と、その瞬間。
天井に向かって差し出された宗達の右手。その指先に向かって、一条の光が閃いた。
あっ。
マルティノは息をのんだ。
オルガンの音色に混じって、ざああっーと通り過ぎる風の音と、遠ざかる雷鳴の轟が確かに聞こえた。
ああーいま。
神話の中の神々がここで交差した。
この世界を創りたもうた吾らが父なる神のみもとで、風神(アイオロス)と雷神(ユピテル)が出会ったのだ。
カトリックの教義における「神」と、ヨーロッパ各地で目にした絵の中にあった神話の「神々」とは、まったく異なるものであるとわかっている。
自分にとっての神は、父なる神。この世界を創りたもうた創造主だけが神である。
それでも、太古の昔から人々の信仰と物語の中に息づいてきた「風神」や「雷神」がこの場にやって来たのだという思いが、マルティノの胸にふっと浮かんだ。
そしてそれを、吾らが神も歓迎したもうているのだと感じることができた。
東と西の神々が巡り合った、いま、この瞬間。
原田マハ、『風神雷神』(下)、PHP研究所、2019年11月12日発行、140頁f
ローマ・カトリック教会において第二ヴァチカン公会議以降、文化脈化の中に福音宣教を深く考える時代を迎えました。プロテスタント教会も同じような時代の中にあるかと思います。
教会は、宣教地においてそれぞれの文化の中に語られてきた「神々」をいたずらに否定してきたところがあります。しかしこんにち、否定ではなく理解の時代を迎えています。文化、そして何よりも「美術」がそれを乗り越える道を提供できるのではないかと、想像しています。
ああ、主よ! なにゆえ邪悪な者にパンをお与えになるのですか?
その者は悪魔です! 人間の姿をした悪魔なのだと、あなたさまもご存じなのに・・・!
しかし、イエスは、すべてを悟り、すべてを受け入れて、凪いだ海のごとく厳かに静まり返っている。裏切り者がともに食卓を囲むことを、ただ赦している。
そして、自ら進んで受難の道へ、一歩、踏み出そうとしている。
罪なき罪を背負い、受けざるべき罰を受ける覚悟を決めた主は、この食卓の席を立ってのち、いばらの冠を被り、ゴルゴダの丘へと続く道を、たったひとりで歩いていくのだ。
原田マハ、『風神雷神』(下)、PHP研究所、2019年11月12日発行、198頁
宗達は不思議な光を瞳にたたえて、マルティノをじっとみつめていた。それから、少しうるんだ声で告げた。
「わいは・・・長いこと、ようわからへんかった。おぬしたちが信じ奉る『神』のことが・・・」
・・・
「せやけど・・・わいは、ようやくわかった。おぬしたちの『神』は、昔むかし、ずっと、すうっとまえから、皆の心の中におわして、いまも変わらず皆とともにあると・・・」
イエス=キリストは、尊い教え、「愛」を人々に伝えるために、この世に遣わされた神の御子。だからこそ、すべてを受け入れ、すべてを赦したもうたのだ。―弟子の裏切りさえも。
宗達は、まずしげなまなざしを<最後の晩餐>に向けた。
食卓の上に両手を広げ、自らの予言に弟子たちが畏れおののくのを静かに受け止めるイエスの姿。
悟りと赦し、そして「愛」が、淡いヴェールのようにその顔(かんばせ)を包み込んでいる。
マルティノと宗達は、ふたり、並んで壁画を見上げた。
原田マハ、『風神雷神』(下)、PHP研究所、2019年11月12日発行、199頁f
この引用文の中には、聖書が語ろうとしている「神の愛」とは一体なんであるか、が深く明らかにされているように思いました。著者の思いが、宗達の言葉を通して語られているように思いました。