これまでの話で、陪餐に際しての信仰の大切さが多少なりともお分かりになったかと思います。誰をも分け隔てなく御許に招いた主イエスも、私に従ってきなさいと呼びかけ、従ってくる者に、私を信じるかと問いかけられました。陪餐に際してまず洗礼を求め、信仰を尋ねる場合に、教会のしていることもそのことと別のことではありません。なぜなら教会自身がそのことをいつも主から尋ねられているからです。
ところで、そのように信仰が強調されると、自覚的に信仰を表明できない人はどうなるのかという心配が生じます。確かに知的なハンディーを背負った方が言葉で信仰を表明できない場合に、洗礼も受けられず、聖餐にもあずかれないというのでは、病める者を真っ先に訪ね、癒された主の福音に反しているように思えます。その場合に考えなければならないことは、知的なハンディーを背負った者にとって信仰とは何なのかということでしょう。信仰とは単なる知的なレベルでの認識や意志的同意に尽きるものではありません。それは神への全人格的な信頼のことであり、自分の存在の根拠を神に明け渡し、神に全く委ねきって生きることを意味します。だからこそ主は、福音の秘義が知恵ある者や賢い者には隠され、幼子のような者にこそ示されると語られたのでしょう(ルカ10・21)。そうであるとすれば、神への絶対依存を生きる知的なハンディーを負った者は、まさに幼子のような者として、全存在それ自体で信仰を告白していると見なければなりません。そして、信仰の共同体である教会は、この存在による信仰を言い表す者を主の前に連れてきて(マルコ2・3)、その者の口となるように、招かれているのです。教会の信仰において洗礼が授けられ、健康上可能であれば陪餐もできるでしょう。しかしどうしても無理やり陪餐しなければならないわけではありません。聖餐の祝いが行われている礼拝の交わりのただ中に、何よりも存在を通して信仰を表明しているこれらの兄弟姉妹がいるということのほうが本質的なことなのです。
このことと未受洗者陪餐の問題を同一に扱うことはできません。信仰(神への絶対依存)を存在的に表明できない者は、人それぞれに与えられたほかのあらゆる手段を用いて自分の信仰を告白することが求められます。だから聖霊が働いて、この石のような心が打ち砕かれ、自分に与えられた手段を通して素直に告白できるように、祈り求めようではありません。
芳賀力、『洗礼から聖餐へ キリストの命の中へ』、キリスト新聞社、2006年10月1日発行、112頁f
信仰の土台を自分の信仰の告白力や知的理解力におくのではなく、洗礼そのものに置くところに福音があるように思います。聖餐の時に信仰が問われるのですが、その信仰というのが自分のなかの何かではなく、一方的な恵みの中にあるとするキリスト教会は、聖餐の時に問われる信仰を、外的なものである洗礼に置くことはしごくもっともなことだといえるでしょう。未受洗者の陪餐がゆるされないのは当然のことです。
そのうえで、「自覚的な信仰を表明できない人」への上記の理解は、まさに福音的であると思いました。