JEA神学委員会がこの5月(2020年)に出した『「心を一つにして、福音信仰のために~新型コロナウイルス時代を生きる教会~』の中の、青木義紀「遠隔礼拝における聖餐について」を読みました。ともに集うことのできない状況の中で、礼拝をライブ配信で、あるいは動画配信で行なう教会が多くなりました。私たちの教会も動画配信の取り組みを行なっています。
そのような取り組みの中で、聖餐式をどう行うか、ということは一つのテーマのようです。上記の青木先生の文書の中で、聖餐式が成り立つ要件として、以下のように書かれていました。
「聖餐において大切なことは、①主の御言葉、②主の指定した物質(パンとぶどう液)、③主の意向の三つです」。
これを読んでなにかちょっとわかりづらい感じがしましたので、あらためて赤木善光先生の文書をいくつか読んでみました。以下にその一つを引用しておきます。何かの参考になればと思います。
聖餐と愛餐の相違点は、聖餐と愛餐とにおける人間の姿勢を考えると、ただちに明白になります。「恵みの手段」であるサクラメントにおいて、人間は基本的に受動的です。これに対して倫理においては、人間は能動的です。
サクラメントは、人間はそれを受けるものであって、それに対して能動的に働きかけるものではありません。通常私たちは「洗礼を受ける」、あるいは「パンとぶどう酒とを受ける」と言います。もちろん、聖餐において、人はパンを食べ、ぶどう酒を飲む、という能動的行為をするし、洗礼においても、信仰を告白するという能動的行為をします。しかし、それにもかかわらず、サクラメントにおいて人間は基本的には受動的です。したがってサクラメントにおいては、そこで用いられる物素が不可欠であり、またそれらの物素は特定の物に限定されます。またそれらが何であるか、どのような意味を有するか、が重要な問題となります。どのような物でもかまわない、というわけにはいかないのです。さらにこのことと共に、誰から受けるか、ということも重要な問題となります。誰から受けても差し支えない、というわけにはいかないのです。特定の人以外の人から受けたのでは、サクラメントにならず、ただの飲食になります。
これに対して愛餐は、上述のように、共に食べるという能動的行為であり、またそのことに意味があるのです。したがって、何を食べるか、また、誰から受けるか、は問題になりません。何を食べようと、誰から受けようと、問題ではないのです。また、極端に言えば、飲食するものが全然無くても、共同の行動によって一致や連帯性を確認することができれば、それでも差し支えないのです。このことは、サクラメントを全く実施しない救世軍、フレンド派、無教会主義等の例を考えれば、容易に理解することができます。
赤木善光、『なぜ未受洗者の陪餐は許されないのか~神の恵みの手段としての洗礼と聖餐~』、教文館、2008年11月1日発行、42頁f
聖餐が愛餐にならないためには、「受ける」ということが重要なポイントの一つである、ということでしょう。現在の教会に来た時、聖餐式の時に司式をしている私が制定の言葉を読み終わるや否や、役員の方の数人がそれぞれに前に出てきて聖餐机に置かれているパンの皿、杯の受け皿をもって、配りはじめられました。「あれっ」と心の中で思いましたが、おそらく牧師の労力を少しでも助けてあげようと気を利かしてくださったことからの伝統なのでしょうが、聖餐式の愛餐化を見たような気持ちになりがくぜんとしたものです。少しずつ説明をして変えていただきました。すなわちパンの皿も杯の受け皿も、牧師から受け取ってほしい、と。牧師から受け取ったものを配ってほしい、と。そうでなければ、聖餐ではなく愛餐になってしまう、愛餐になってしまったら、それぞれがその気持ちのままに神さまの祝福を左右することになる、そうなれば神さまの恵みの確かさが揺らいでしまう、と。実はそこまでちゃんと説明しなくても、役員さんたちはよく理解して従ってくださいました。聖餐式においての「受ける」とともに、牧師の指導を「受ける」すばらしい方々でした。
オンライン、あるいはリモート聖餐式ですが、この「受ける」ということが明確になるといった取り組みができればいいのだと思います。