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「ヨハネによる福音書20章19節」考

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」(新共同訳、ヨハネによる福音書20章19節)

 復活の主イエスさまにお出会いしたマグダラのマリアからの知らせを聞いた弟子たち。かれらはユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけていました。「トマスは・・・彼らと一緒にいなかった」(24節)と記されていますので、ユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけている彼らは一緒に集まっていたということでしょう。私は、かれらが一緒に集まっていたのは、ユダヤ人を恐れていたからだ、と理解していました。しかし改革者と呼ばれるようになるカルヴァンは以下のように注解します。

「みんながおなじひとつの場所に集まっていたのは、神の確かな摂理なしには起らなかったことである。」(『カルヴァン・新約聖書註解、Ⅳヨハネ福音書(下)』、山本功訳、新教出版社、1965年発行、624頁)

「もっとも、かれらも、自分たちをとりまく非常な危険を避けようと、身を隠していた。しかし、勇気をとり戻して一緒に集まっているのである。」(前掲書、625頁)

 つまり恐怖心があったから集まっていたのではなく、恐怖心があったけれども集まっていたということであり、この「集まっていた」ということにカルヴァンは彼らの信仰を発見しています。

 たしかに迫害の危険が迫る中にあって、いっしょに集まっていたのでは迫害者に発見されやすいことでしょう。散り散りばらばらになっていた方が、危険は少なかったのかもしれません。実際にエルサレムから離れて行こうとした弟子たちがいたことを聖書は記しています。

 一緒に集まること。そのところに復活のイエスさまは来てくださり真ん中に立ってくださったのです。初代の教会はいっしょに集まるということを、まるでそれ自体が信仰のように大切にしたのだと思われます。個人主義が横行する現代にあって教会もその流れにさらされています。共に集まるということ、交わりということに信仰的な意味を大切に発見したいと思いました。


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