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神がわかったというとき、その神は本物の神ではない

キリスト教の中にも、これほど乱暴ではないが、よく似たいい方がある。それは、「否定神学(theologia negativa)」ということばである。これについてよく知られた書物に、ニコラウス・クザーヌスの “De docta ignorantia” がある。神を理解し得るものとしてではなく、理解し得ないものとして認識すること、それこそ信仰の神の本来のとらえ方であるという。神がわかったというとき、その神は本物の神ではない。神はわからないということによってしか認識し得ないという神学概念は、キリスト教の中でも古くからある。日本語に訳されているものの中では、『不可知の雲』という本があるが、これは、英国の神秘家によって書かれたもので、「否定神学」の流れを汲んでいる。「雲」は神を包んでいるもの、すなわち神が「知られざるもの」であることを意味している。日本語で「無知」と「不知」を区別すると、神に対して「無知である」といことは無神論的な立場を指しているが、「不知」であるということ、つまり「不知の神を知る」、「不可知の知」としてとらえられるとき、それは「否定神学」の立場にあるといえる。このような考え方は、禅の「殺仏殺祖(せつぶつせっそ)」に近い発想にもとづくものである。

奥村一郎、『奥村一郎選集 現代人と宗教』、「第一章 現代人とキリスト教」、オリエンス研究所、2008年4月10日発行、22頁

神さまを求めることを求道するといいます。求道者のことを英語ではシーカー(seeker)というそうです。探し求める人ということでしょう。仏教ではこの求道を「ぐどう」と読むそうですが、少し意味に違いがあるのかもしれません。

神さまを求めるときに、神さまを知りつくすことのできる存在として求めるのか、それとも知りつくすことのできない存在として求めるのか、には大きな違いがあると思います。

知りつくすことのできる神として求め、結果、知りつくすことができたとしたときに、それは聖書の語る偶像なのでしょう。神さまはどこまでも大きなお方です。私たちはそのお方の前にただひざまずくのみです。

ひざまずいたとき
私はなんだか 心のドアがひらいて
光がしずかにはいってきたような
気がしました。
・・・
(三年百合組 小野ふき子)

前掲書、190頁

この小学生のミサについての感想文の中に、なにか真理があるように思いました。


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