静まりの恵み

9月に入っても猛暑が続いてきましたが、きょう12日の木曜日は涼しい朝を迎えました。澄んだ青空がひろがり、爽やかな一日の出発です。

今週の初め、半年に一度一泊二日で開催される牧師たちの黙想会に参加してきました。今回も大変恵まれた時間をいただきました。「牧師として、会衆のためにすることでなによりも大切なことは、自分のたましいのケアーをすることである」と教えられています。医師に例えるならば、忙しさの中で体調不良を抱えたお医者さんに手術はしてほしくはないでしょう。メスもさびたものではなくしっかりと手入れをされたものがいいでしょう。牧師もその霊性が整えられしっかりとケアーされた存在であり続けることが、神さまから託された会衆のために最も大切なことなのです。

聖書の黙想の中で心にとまった言葉をいくつか書きとどめたいと思います。

「それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。『主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。』」(第1列王記19・3-4)

いのちを狙うイゼベルの手から逃げる預言者エリヤ。新改訳ではこの3節は以下のように訳されています。

「彼はそれを知って立ち、自分のいのちを救うため立ち去った。」(3節、新改訳2017)

自分のいのちを救うために逃げ去った先で祈る言葉が、「わたしの命を取って下さい」なのです。わたしの命を取って下さいは、生きたい、命を救いたいという叫びなのです。さまざまな行き詰まりの中で、死んでしまいたい、もう終わりにしたいとの願いは、本当は、生きたい、自分らしく喜びと感謝をもっていきたいという叫びなのです。自分のなかのこの「生きたい、自分らしく生きたい」という叫びに、しずかに耳を傾けました。

エリヤは一人で静まる中で、神さまに出会います。神さまは不思議な方法でエリヤに出会って下さり、おことばをかけて下さいました。神さまの語られたことばは以下の通りです。

「起きて食べよ」「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」「エリヤよ、ここで何をしているのか。」「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」「エリヤよ、ここで何をしているのか。」「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代わる預言者とせよ。ハザエルの剣を逃れた者をイエフが殺し、イエフの剣を逃れた者をエリシャが殺すであろう。しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」

一人になってもなお、自分に固執するエリヤを、神さまははげまし、新しく立たせ、遣わされます。エリヤに必要なことは、自らを愛し遣わす神さまに出会うことでした。そのためには自分の「外」に出ることだったのだと思います。

「主の前に立ちなさい」と、あらためて神さまに語っていただいた静まりの会でした。お世話くださった先生方、感謝します。

今回は、バイクで参加しました。電車だと2時間近くかかるのですが、バイクで高速を使うと50分ほどで到着します。以前にも同じ施設で開催された別の黙想会に参加した時もバイクでいったので可能だと踏んでいました。名神、京滋バイパスをほぼ80キロで疾走しますので、他の自動車には少し迷惑だったでしょうか。南郷から宇治の山々の緑、草津あたりでは近くのパインアメ工場からの甘酸っぱい香り、近江富士と呼ばれる三上山のどっしりとした姿などなど。愚かなほどの安全運転で、快適なドライブでした。


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