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自身の暴力を正当化するために使っているのが、この『純粋性』というプロパガンダ

「自身の属する集団またはイデオロギーの価値をほかより高く見せ、『我々』を『他者』と区別するためのもうひとつの戦略は、自身の『純粋』さを主張することである。・・・穢れている、純粋でないと見なされた者は、排斥され、罰せられる。サラフィー・ジハード主義、いわゆるISのテロネットワークのイデオロギーが広め、自身の暴力を正当化するために使っているのが、この『純粋性』というプロパガンダである。」

(カロリン・エムケ、『憎しみに抗って』、みすず書房、2018年、145頁)

「純粋性」というプロパガンダ。プロパガンダとは主義主張の宣伝のこと。神さまは聖いお方ですから、神さまを信じる私たちも聖くなければなりません。しかしこの聖いという言葉は少しくせ者です。律法主義は聖さを追求する生き方ですが、結果的に人をさばき、また自分も生きづらくさせてしまいます。
イエスさまの教えてくださった聖さとは、神さまのものとされるという意味です。自分で形作る聖さというのは全く別物です。

キリスト教会も、自分の暴力を正当化するために純粋性というプロパガンダを利用してきました。また今も利用しているところがあります。あるいは純粋性というプロパガンダによって、知らず知らずのうちに他者への暴力をふるっていることがあります。

先日の牧師会でLGBTについての発題があり、あまりのステレオタイプなその発題に、いくつものリベラルな反論をしてしまいました。おそらくその場にいた皆さんには不快な思いをさせてしまったのだと思います。しかしこの数年自分なりに学んできたことから、マイノリティーへの理解こそイエスさまがお立ちくださっているところであるとの思いを持つようになりました。福音派の牧師先生たちはとうぜん聖書信仰なので、リベラルな私のような考えは受け入れられないのだと思いますし、また教会の皆さんも同じだと思います。このまま福音派の教会で奉仕し続けていいものなのだろうかと少なからず悩み始めています。迷惑をおかけすることには申し訳なく思っています。こんな中途半端な牧師を受けいれて下さる教会が存在するでしょうか。


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