ロドリゴは踏む決心をします。足元に置かれた踏絵を見下ろすと、そこには日本に来てから初めて見るキリストの顔があります。しかしそれは自分が長いあいだ考えてきた立派で美しく威厳と栄光にみちたキリストの顔ではなくて、踏まれて摩滅してへこんで非常に悲しそうで、われわれと同じように疲れている、みじめな顔です。そのキリストがロドリゴに「踏むがいい」と言うわけです。まあ、「踏むがいい」と言うのをロドリゴは聴くわけです。
つまり、例えば私の女房が私の顔を踏んだら助かるという状況があって、もし私が彼女のことを愛しておれば、おそらく私は女房に「踏め。踏んで助かれ」と言うでしょう。あなたたちも自分の恋人がそういう状況に置かれていたら、おそらく「あたしを踏んで」と言うでしょう。あなたの母親はあなたに必ず「さあ早く、お踏み」と言うでしょう。もし、キリストが人間を愛しているならば、その時、「踏め」と言わなかったか・・・。
声を聴いたロドリゴは踏みます。踏むのだけども、踏んだということは同時に、彼は自分が今まで信じてきたものを裏切るという矛盾した状況に置かれることになります。そこから彼が何を考え、どうなっていくかということは、小説を読んでくれればわかります。
(於・紀伊國屋ホール/1966年6月24日)
遠藤周作、『人生の踏み絵』、「人生にも踏絵があるのだから」、新潮社、2017年1月20日発行、25頁
「人生にも踏絵がある」といいます。それは単純に苦しみ、試練ということと考えられますが、向こうからやって来る部分と、向こうからやって来たものによって起こる自分の内面の部分があるのだと思います。踏絵においては、迫害の中で迫る苦しみと、それを踏むことによって起こる自分の心の中の葛藤ということでしょうか。いずれにせよ、イエスさまはその両方に心を寄せていてくださる、その両方において十字架の苦しみとして担っていてくださる、そこに聖書の語る愛があるということなのだと思います。
たとえば福音派の多くの教会では、仏式の葬儀や法事においてお焼香をすることを偶像礼拝として戒めています。しかしお焼香をすることによって自分や家族が難なくその場を過ごすことができ、お焼香を大切なことと考えている人たちの心に嵐を起こすことなく、平和な人間関係が築かれていくとすれば、そのことを目くじらを立てて裁かれるのがイエスさまなのだろうか、などと考えてしまいます。
イエスさまを信じることによって大きな平安と解放をいただいたのに、結局また別の奴隷になることとなってしまっているのではないか、キリスト者の生活が聖書に登場する律法学者やパリサイ人の教えになってしまっているのではないか、などと考えてしまうのです。