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神の前に人間は虚無に等しいと言うのは

 いずれにしても、救いの業の全体が救う神に帰せられるのであれば、救われる人間の為すことは何もない、という考え方の根底には神と人間を同列に置いて、いわば力を競わせるかのような発想があり、これが神の「何であるか」についての致命的な誤りに導き、ひいてはそのような「神」をわれわれの知的探求の領域から遠ざけることになった、と言いたいのである。
 なぜかと言えば、神の前に人間は虚無に等しいと言うのは敬虔主義(ピエティスムス)の極致のように見えて、じつは「慈しみと憐れみに満ち、恵み豊かさと真(まこと)にあふれる」「愛(アガペ)」なる神の否定につながるものだからである。敬虔主義(ピエティスムス)が神の否定に導くというのはまったくの暴論と思われるかもしれないが、本書で繰り返し強調したように(敬虔主義のような)人間の尊厳を傷つける立場は必然的に神の「何であるか」についての誤解と結びついており、そのような立場の根底にある「神」への反感や敵意へと導く危険があることを指摘しておきたい。

稲垣良典、『神とは何か』、講談社、2019年2月20日発行、263-4頁
副題:哲学としてのキリスト教
講談社現代新書2514

人間の尊厳を傷つける立場は、神さまへの誤解と結びついていて、結局神さまへの反感や敵意を生み出してしまう、といいます。人間の尊厳を傷つける立場として、敬虔主義が挙げられています。私はどちらかというと敬虔主義に憧れるところがあるのですが、そこには律法学者やパリサイ人の罪が潜んでいるということでしょう。


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