卓越した思想家・神学者であったニューマンはこの著作の中で、学識ある聖書中心主義者の多くに見られる「観念的承認」(notional assent)と、素朴無学ながら信心深い信徒(もちろん、卓越した学識と豊かな聖性を備えた人物を除外するのではなく)の信仰を支えている「現実的承認」(real assent)との差異を鮮やかに示している。私はニューマンが、ロック、ヒューム、ミルなどの経験主義的哲学者が輩出した英国の思想家らしく、つねに経験的事実に基づきつつ、具体的に論を進めていることにとくに感銘を覚えたのを記憶している。
「信じる」という選択的な行為を呼び起こし、直接に支える知的な働きが「承認」(assent)であるが、ニューマンの言う「観念的承認」と「現実的承認」はほぼ次のように理解できると思う。キリスト信者の間で「信仰」と呼ばれているものには二つの種類があって、一つは教養や学識のある人が聖書を熱心に学んで、自らがそれに基づいて生きるべき自覚的信念として形成した信仰、もう一つは何らかの仕方で伝えられた神の言葉が、聴く者においていわば「受肉」して―というのは、その人が自然・素朴に信じている「神」が、その自然な素朴さはそのままに、超自然的な神の認識へ向けて完成されて―神は現実に実在する神として受け取られるようになる、という仕方で生まれる信仰である。前者が「観念的(ノーシオナル)(思考や認識の領域に属するという意味であり、空虚というニュアンスはない)承認に基づく信仰であり、後者が「現実的(リアル)」(「ここで・今」経験される現実よりも、より現実的(リアル)な実在)承認に基づく信仰である。稲垣良典、『神とは何か』、講談社、2019年2月20日発行、206-207頁
副題:哲学としてのキリスト教
講談社現代新書2514
稲垣良典の本をこのところこころ惹かれて読んでいます。
この「観念的承認」と「現実的承認」についてですが、イエスさまへの愛とその具体的なあらわれとしての信仰生活、あるいは信仰の態度という点について、プロテスタント教会を眺めてみると、深くうなずけるところがあります。
観念的承認のことを「教養や学識のある人が聖書を熱心に読んで、自らがそれに基づいて生きるべき自覚的信念として形成した信仰」といいます。ここに「熱心」と「信念」という言葉があります。まさにプロテスタントにおいては「熱心」な「信念」のことを「信仰」といわれているような気がします。それでいて人間の熱心さや信念には常に限界がありますから、信念の熱心さが保たれるために、あらゆる人間的取り組みが導入され何でもありの礼拝となります。あるいは素朴に信じて生きようとする人たちに、熱心な信念を確認しなければならないとして、牧者たちはまるで自分が神になったかのように迫ります。それでいてどこか観念的承認から脱出したいあこがれが、伝統的教会の「形」への模倣を生み出します。それも熱心な信念を保つための、演出となってしまいます。
もちろんプロテスタントの中にも、現実的承認に生きようとする信仰者もたくさんおられます。また信徒が現実的承認に生きるために労する牧者たちもたくさんおられます。
子どものように喜びと感謝をもって、また神さまへの限りない愛をもって信仰生活を送ろうとする方々がたくさんおられることは、牧者の励ましです。そこには「現実的承認」に生きる教会の姿があります。
逆に礼拝中、居眠りならともかくまるでそれが善いことのように一番前で平気で寝ている信徒や、さしたる用事もないであろうにじっと座っていることが苦痛だからでしょう、こそっとではなく平気で礼拝堂から出ていく信徒がたまにおられるとがっかりします。礼拝が劇場で観劇しているかのようにとらえているのだろうと想像します。礼拝が神さまと一対一で相対していることであるとは、実感していないことは確かです。そこにも「観念的承認」にある教会の姿が見えてきます。そんなところに神さまの祝福があるはずがありません。
カトリック教会の礼拝堂に出かけると、お堂に入るときにひざをかがめ、聖水をいただき、十字を切り、十字架に向かってひざまずく人びとを見かけます。まさに「現実的承認」に生きる信仰者に出会います。そのような信仰者の前には、ありありと神さまが立っておられる姿が見えてきます。