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みことばによって強められたいと思います

このわれらの時代の中に堅く立ち、あなたの助けを期待することができるために、すでにみ助けを待つことによって堅く立ち、よろこぶことができるために、われらはみことばによって強められたいと思います。

C.ブルームハルト、『夕べの祈り』、加藤常昭 訳、261頁

〔主よ、わたしの力、わたしの砦/苦難が襲うときの逃れ場よ。あなたのもとに/国々は地の果てから来て言うでしょう。「我々の先祖が自分のものとしたのは/偽りで、空しく、無益なものであった。〕(エレミヤ16・19)

2018年11月20日(火)

神さまの助けを待ち望みつつ、喜びの中に生きるために、聖書のことばによって強められることを祈り求めます。
聖書のことばによって強められるということは、希望に生き、今この時を喜ぶ生き方を私たちの人生に形づくります。

聖書のことばによって強められるために、聖書の読み方は大切です。読み方によっては強められるどころか、逆に弱められてしまいます。
聖書は、神さまのことばです。神さまからの愛の手紙です。そこには神さまがいかに人間を愛しておられるかが記されています。ですから神さまの愛を求めて読む必要があります。
あるいは聖書を読むことによって神さまに愛に出会う必要があります。

神さまのことばである聖書は決していわゆる「おふでさき」ではありません。天から超自然的に降ってきたようなものではありません。旧約聖書は、イスラエルの民の中に語り伝えられた民のことばです。また新約聖書は、初代教会に生きたキリスト者たちの手紙、証言です。ですから聖書のことばの背景に、あるいは前提に、イスラエル共同体、そしてキリスト教会が存在していました。キリスト教信仰は、教会の中に生まれ育まれてきたのです。そしてそのような道のりの中に聖書が書かれ結集(けつじゅう)されました。聖書の前提として存在していた教会には、すでに三位一体論、キリスト論が充満していました。三位一体論やキリスト論を逸脱する異端の登場に出会って、教会ははじめて聖書の結集に取り組みます。聖書のことばをもって三位一体論やキリスト論を逸脱する、あるいは否定するということは、本末転倒していることです。
この三位一体論、キリスト論といった正統信仰、正統教理の中にこそ、神さまの愛が余すところなく現れています。正統信仰をもって、また正統教理に照らし合わせて聖書を読んでいくことによって、神さまの愛を正しく学ぶことができます。そうして学ぶ聖書のことばによって私たちは、強められ、希望に生き、喜びに生きる者とされるのです。


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