詩編46編11節(10節)は、私たちに大きな慰めを励ましを与えてくれる聖句です。
以下、各種の訳を並べてみます。
- 新共同訳「力を捨てよ、知れ、わたしは神。」
- 新改訳2017「やめよ。知れ。わたしこそ神。」
- 新改訳第3版「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」
- フランシスコ口語「静まれ、わたしを神と知れ。」
- KJV「Be still,and know that I am God:」
- RSV「Be still,and know that I am God.」
- NIV「Be still,and know that I am God;」
- ラテン語「
」 - LXX「
」
この中で、ラテン語(vulgate)の「vacate」は英語のバケーションの語源になっているのでしょうか。「空にする」という意味だそうです。ギリシャ語(LXX)の「スコラサーテ」は、スコラ哲学、スクール(学校)などに通じているのでしょうか。「暇である」という意味だそうです。ここでは「力を捨てよ」「やめよ」「静まれ」と訳されています。ちなみに第1コリント7章5節には「~に従事する(専心)する」という意味でつかわれいて、マタイ12章44節では「空いている」という意味でつかわれています。
しかし何といっても文語訳は美しく力強い翻訳となっています。
- 文語訳「汝等しずまりて、我の神たるを知れ」
ヨゼフ・ピーパーの『余暇と祝祭』では、この静まるということを、観想(コンテンプラチオ~日常生活のあらゆる心づかいかや関心をはなれ、小さな自我をぬけでることによって、世界をあるがままにながめ、その創り主に触れること)に結びつけて論じています。この静まるということこそ、人間が人間として健やかに生きるために大切な人生の土台である、と言います。逆に「人間が彼固有の尊厳にふさわしい生き方を放棄してしまうこと、それが『怠惰』の意味」(ヨゼフ・ピーパー、『余暇と祝祭』、61頁)といい、神さまを忘れ忙しくこの世界で働いているのは、怠惰である、と言い切っています。
主の日である日曜日に礼拝に来ないのは、怠惰であるということですが、忙しく日常のことごとに埋没していることも、また怠惰なのです。どんなに偉業をなしたとしても、神さまの前にでる準備をすることを後回しにしていては、確かに怠惰ですね。