イエスと共に新しい年を
2017年12月29日(金)われわれこの歳末においてイエスが真の王である、わが主、わが神であるということを認めて、イエスに事(つか)えることも、身を献げることも、イエスによりて希望することも、自分の抱負をも、実に王者の眷顧(けんこ)を蒙(こおむ)って居るものに相応(ふさわ)しい有様であるようにしたい。どうぞモッとイエスに委(まか)せるようにしたい。
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われわれはイエスを見くびるから姑息である。イエスを僕にするからわれわれはやはり悪魔の圧制を受けて居るのである。どうしても心の底からイエスの前に降参して、惜し気なく自分の身命を祭物(そなえもの)にしなければわれわれは富むことが出来ぬ。
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イエスのごとき主を奉じ、これに身を託して、意気常に揚がらず喪家の狗然たるは理において有るまじき事と言わねばならぬ。イエスは大いなる富と力と自由とをもち手を広げて待って居られる。ここを善く合点するが新年を迎うるに一番善い準備である。〔植村正久〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
395頁
「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8・37)
「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4・6,7)
神さまに委ねることが信仰です。
全き信頼によってすべてのことをゆだねてしまえば、真の平安がやってくるのに、全き信頼を持たず、すべてをゆだねることをしないのはイエスさまを見くびっているのだ、といいます。
「喪家の狗」とは喪中の家の犬のことで、やつれて元気のない人のたとえ、とのこと。自分で何もかも支配しようとしている人は、やつれて元気がなくなるが、すべてをゆだねて神さまへの希望に生きていると、楽しく生き生きと生きることが出来る、ということです。