, ,

主よ来たりたまえ

主よ来たりたまえ
2017年12月27日(水)

夜にならなくてはあの荘厳な星空が見えないように、人間もこの世の生活に暗黒、すなわち絶望を感ずるようにならなくては、天の希望の輝きを仰ぐことはできません。・・・

このような精神的暗黒感はどのような情況から生ずるのでしょうか。艱難・苦労・災禍・疾病・死、そしてそれから生ずる無常観もそれに数えられるでありましょう。しかしさらに深刻な絶望は罪悪意識に俟たねばなりません。そして、その暗黒が深刻であればあるほど、光明も一段と輝きを増すのであります。いうまでもなく、これらの暗黒感が、それみずから救いの道を拓くことが出来るというのではありません。それは全くの無力であり、単なる準備過程にすぎません。とはいえ、それは救いの希望が与えられるのに不可欠の条件であります。

空に多くの星があるように、キリスト者も多くの天につける希望をもち得るでありましょう。けれども、究極最大の希望は世の終わりにおけるキリストの顕現にあります。そのとき彼の再臨によって齎される神の国は一切の希望を充たすでありましょう。かくて「み国を来たらせ給え」の祈の偉大なことを知ることが出来ます。しかし、悲しいことには、この祈願ほど不真面目に唱えられている祈は少ないでしょう。それは多くの場合、我らをして、宗教的感化をもつよりよき社会を建設せしめよ、という人間的欲求に掏り替えられているのであります。けれど、キリスト者は、この世が徐々に進歩し改善されて天国になるという人間的な希望観測に同調することは出来ません。希望のすべては主の再臨に懸っているのであります。このことは近代的キリスト教の無視、少なくとも軽視するところとなり、その結果、教会の信仰に著しい堕落を来たすようになりました。初代教会が「主よ来たり給え」の希望的緊張に生きたことに我々は深く学ばねばなりません。

〔中村獅雄〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
393頁

「これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。」(黙示録22・20)

新しい一年が間もなく始まろうとしています。教会ではクリスマスを待ち望む待降節を一年の始まりとしていますので、すでに新しい年が始まっている感じがします。
待降節は、主のご降誕を待ち望むことを学ぶ季節ですが、この季節に、それとともに「再臨」を待ち望むことを重ねて学びます。主は幼な子の姿としてこの地に来てくださいました。公生涯の後に十字架にかかり死なれました。しかし三日の後に復活せられ、今は天の御国にて父なる神さまの右に座して日々私たちのためにとりなしていてくださいます。この主がやがて再びこの地に来てくださいます。この再びこの地に来てくださるということを再臨といいます。主を信じる者はこの再臨を信じています。

再臨がいつであるのかを聖書は語りません。もしいつであるということを語るならば、人間はそのときまでは再臨はないと踏んで気ままに生きるでしょう。いつか分からないから常に備えるという生き方を学ぶことが出来るのです。いつか分からないことは大切なことです。

この再臨の時にすべてのことが明らかになります。すべての帳尻が合わされ、神さまの国が到来するのです。今日も私たちは待ち望んで備えています。


投稿日

カテゴリー:

, ,

投稿者:

タグ: