一人は目覚めて
2017年12月20日(水)一人は目覚めていなくてはならないし、一人はすべてのことを見ていなくてはならない。われわれが眠っている間、あるいは夢見るように、自分たちの行く手のあらゆることに無感動のままに歩いている間も、一人は目覚めていなければならないのです。・・・ゴルゴダの丘の上では、すべてが集結し、山のような重さとなって、ただ一人の方の胸の上にのしかかりました。そしてその心は、決して堅い石ではなく、柔らかい心でした。その心は愛を持っていたからです。そして、そのゆえに、この重荷はその心の上にとどまっただけでなく、その心の中にまで入り込んで行き、その心を満たし、突き破ってしまいました。まことに、その方は、われわれの病を背負われ、われわれの痛みをその身に引き受けられました。・・・その方はまさしく、本当はわれわれが立たなくてはならない場所に立ちたもうたのだということなのです。
〔ヘルムート・ティーリケ〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
386頁
「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53・5)
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4・15,16
人間は神さまに似せて造られたので、聖さや正義にあこがれを持っているのだと思います。しかし罪を犯した人間は聖さや正義を求めるその心がゆがんでいるので、聖さや正義を振りかざして、人びとを傷つけ、また自分をも打ち滅ぼしてしまいます。
イエスさまは、本来であればそのような罪人である私たちが立たなければならなかった神さまの審きの座に、自らお立ち下さいました。私たちはこのキリストの犠牲のよって救われました。この救いは完全です。