不信仰に媚びることなく
2017年12月17日(日)信じる者は、自分が―つまり「自分の理性や力によっては」―全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず、自分自身について最高の驚異を感じつつ―ただ行為するだけであろう。彼の中にも絶えず共に働いており、頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ、ただそれをするのである。
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すなわち自分自身の不信仰に媚を呈することなどはやめてしまって、自分にも知らされ、自分にも与えられた自由の中に生きようとするのではないか?〔カール・バルト〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
383頁
「するとすぐに、その子の父は叫んで言った。『信じます。不信仰な私をお助けください。』」(マルコ9・24)
信仰が、自分の理性や力によって成り立っているとすれば、それは結局は自分を信じているだけであって、絶対他者である神さまを信じていることになりません。聖書はそういう状態を偶像礼拝といいます。
不信仰に媚るとは、不信仰に迎合する、へつらうということですから、不信仰に支配されているというような感じでしょうか。そういう自分の不信仰に縛らていることから自由にされることがキリストを信じる信仰に生きることでしょう。
きょうもすべてのことをおゆだねして、神さまから与えられた分を神さまの豊かに導きの中にあってなさせていただきたいと思います。