観念的信仰
2017年12月16日(土)

弟子たちが復活のイエスを理解できなかったのは、彼らがイエスを実際はやっぱり死人のうちにたずねたということ、すなわち、たとえイエスが彼らに、彼の生涯の最初の時に、どんなことが起ころうとも、あらゆることが死者の世界のただなかにあって、偉大なる神の勝利に終るということを、既にあらかじめガリラヤにおいて語っていたにもかかわらず、イエスを死の世界の属する者とみなしていたということ、そのことによるのです。
・・・
神はただご自分の天国においてのみ本当の主であり、ここ地上においては、そこに出現するすべてのものは、このイエスさえも結局は死んでしまうということです。彼らがこのことを信じたればこそ、彼らは純粋に観念的な信仰にとどまったのです。現実的であったものは、私たちの多くのものと同じように彼らにとっても美しい観念に変ってしまいました。だがまさにそれゆえにこそ、キリストの弟子はこの世と自分との区別を失ってしまったのです。それであらゆる自分以外の世といっしょに、彼は死の力にたいする揺るがしがたい信仰、この死にゆく世のなりゆきはどうしようもないという信仰、この世においては神が無力であるという信仰を持つのです。弟子たちがこの世につける信仰を持っているかぎり、彼らはこの世にたいして危険でもないし、また助けにもなりませんでした。あなたがたの一人が、こんな信仰を持っているかぎり、こんな信仰のキリスト教も実際には何の意味もありません。教会がこの世にたいして危険となり、多くの助けとなるということ、実にこのことにすべての問題がかかっているのです。

〔ゴルヴィッツァー〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
382頁

「恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。』」(ルカ24・5~7)

 復活信仰はキリスト教の根幹です。復活を否定することはキリスト教でなくなるということです。ですからこのことは大切です。
 復活を信じるということは、イエスさまを死人の中に探すことから自由にされ、生きている世界、この世界において探すのです。そうすると復活の主イエスさまとお出会いすることができます。
 そのためには、イエスさまが語られたお言葉を思い起こすことが必要です。イエスさまのおことばを思い起こす時、そこに復活へ信仰が生まれます。
 復活を信じるということは、この世界の中にあっても、そしてどのような世界にあっても、神さまが生きて働いておられることを信じることです。


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