真のコミュニケーション
2017年11月28日(火)

神の偉大さと神聖さ、つまり神の神秘性と近づき難い威厳とに対する深い畏敬の表現と並んで、聖書にはまた神と人間の両方の側に深い親密さを示す調子や関係がある。
・・・
神と人とのコミュニケーション、およびその基礎の上に立つ人と人とのコミュニケーションの緊密な人格性は、旧約聖書においては、神の人に対する語りかけにたいして人が愛をもって応答するという観点からのべられている。この愛における応答こそ、全きコミュニケーションであり、人がその生の根拠を神との対話にもつことを真心から承認するという表現である。
・・・
愛とは、人格相互の間にわだかまりがなく、自由にふるまうことができる対応の状態であり、その中で初めて、真のコミュニケーションは完全な実を結ぶことができるのである。これこそ、聖書が人間存在の根源的事実であるコミュニケーションについて言っているところの核心である。

〔ヘンドリック・クレーマー〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
362頁

「『先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。』
そこで、イエスは彼に言われた。『「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。』」(マタイ22・36~40)

神さまを愛し隣人を愛すること。信仰生活の土台でありまた目標であることはいくつもあるのかもしれませんが、この神さまを愛し隣人を愛することこそ聖書の語るもっとも大切なことではないかと思います。
神さまを愛し隣人を愛するということが後回しにされていては、何がなされたとしても十分な信仰生活とは言えません。

この二つの事は、並列してあると共に、お互いの補い合っているともいえるでしょう。神さまを愛することなくして隣人を愛することは成り立たないということであり、また隣人を愛することのない神さまへの愛はどこか問題があるのではないかと思います。

神さまは人間との関係において人格的な交わりを求めてくださいました。その基礎の上に、人と人との関係が人格的交わりとしてはじめて成り立つのです。


投稿者:

タグ: