偽りの体験
2017年11月24日(金)

こんな体験のおかげで、それからというもの、私の感覚と批判力は、単に作りあげられたにすぎない感情や、人まねのおしゃべりに対しては、度が過ぎるぐらい敏感になって、のちには、学界での大家たちの教説にたやすく賛同したり、そういう学派の代弁者の群に加わったりすることには、いわば免疫となりました。この知識過剰から逆効果として生じた解毒剤のおかげで、今日に至るまで、私は自分が神学の問題として考える事柄が、自分の信仰の実践と合致するかどうかを常にたしかめ、またそこから先は、思弁が独走して、もはや実存に対応しなくなるような境界線を、厳重に確定するようになりました。およそ神学者くらい、大家たち―たとえば初期のルター―の、魂をゆりうごかす偉大な思想の中に没入しながら、その思想を解釈してゆくうちに、それがあたかも自分自身の信仰の反映であるかのごとく思いこみ、その為に、実存的な虚偽におちいるという誘惑にさらされている者は、ほかに多くはいないでしょう。

〔ヘルムート・ティーリケ〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
358頁

「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8・32)

「先生」と呼ばれるようになると、自分があたかも「何者か」になったかのような錯覚にさらされます。牧師や伝道者は世の先生と呼ばれる方々にもましてその錯覚、そして誘惑にさらされます。
人を自由にするのは真理ですから、偽りは私たちを不自由にします。
不自由の中にある伝道者は神さまの救いを語ることは難しいでしょう。
つねに自分の信仰の実践と合致するかどうかを確かめなければなりません。


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