王道
2017年11月21日(火)されど要するに武士道は痩我慢をその本質とす。傲慢に流るるはその弊の一つなり。窮屈に屈するはその病なり。
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キリスト教には武士道も含蓄す。しかも更に一歩を進めて王道を主張す。すなわち長者の心なり。支配するの道なり。・・・すべてのものを支配し、これを統治す、ただ物に屈せず、切歯扼腕して痩我慢をはるにあらず、堂々として万物を支配す。これを王道という。
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キリスト者が世に処するに当たり、余りに抱負小さく、意志薄弱にして、神経質に流れ、感情的に走り、見すぼらしき有様なるは、甚だ不似合いなることなり。その本領を忘れたりと言わざるべからず。我らは実に王者として救われたるなり。痩我慢なる武士道よりも更に大いなる王道において、人を使うも、人に使わるるも、病気にも、失敗にも、その本領を発揮したきものなり。〔植村正久〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
355頁
「高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8・39)
主にある者は王道に生きる者である、といいます。
王道とは広辞苑によると「需家の理想とした政治思想で、古代の王者が履行した仁徳を本とする政道をいう。↔覇道」とありました。ちなみに対語(反義語)の覇道とは「儒教で、武力・権謀を用いて国を治めること」とありました。
武士道は覇道に通じるところがあるのかもしれません。本来は王道に通じるものなのだと思います。
神さまを信じる者の生き方は、王様のように「堂々として万物を支配す」る生き方である、そのように豊かな生き方であるといいます。