われわれの責任
2017年11月12日(日)

われわれはこの世に責任がある。世はわれわれに問う。われわれ以外にそれをなしうる者のなきが故に、われわれが答えなくてはならない。市民、親、PTAのひとりとして、旅客として、証人、告発者、また議員として、その持ち場を持つわれわれである。「だれかが罪を犯しているのに、わたしの心が燃えないでおれようか」。

〔アルプレヒト・ゲース〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
346頁

「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」(2コリント11・29)
「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」(ガラテヤ6・1)

 世界の罪、社会の罪、国家の罪、誰かの罪、そして自分の罪。それに心が燃えない、あるいは痛まないということはあってはならない。ありえない、というのでしょう。キリストはその燃える心でこの地に来られ十字架と復活の御業を成し遂げてくださいました。

 この『愛と自由のことば』では表記が「アルプレヒト」となっていますが、『不安の夜』(みすず書房)では「アルブレヒト」となっています。「プ」と「ブ」の違いがあります。


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