自分を顧みないで
2017年11月9日(木)ある意味からいえば、キリスト者というのは、もう自分を顧みない人になった、ということであります。ただキリストだけを仰いで暮らす人になった、ということであります。いうまでもなくキリスト者は、誰よりもきびしく自分を裁き、きよい生活を励む者であります。しかし、その反省も、このキリストを仰ぐことから生まれる救いの確信を失わせることがないのです。
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キリスト・イエスを信じている者にとっては、その全生活が、キリストの死と復活によって守られているのであります。その人に、過去からの生活の名残(なご)りがあったとしても、それはもう問題にはされないのであります。それを信ぜよ、というのです。それを認めて生きて行け、と申すのであります。〔竹森満佐一〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
343頁
「ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(第2コリント5・16,17)
後悔ばかりが心をよぎり、その重みに自分自身が押しつぶされそうになることがあります。しかしもうそのような自分の知り方をしなくてもよい、してはいけないということです。新しく造られたものとして、その全生活が、キリストの死と復活によって守られていることを信じ、認めて生きて行け、というのです。