神の義
2017年10月27日(金)

私はパウロのロマ書を理解したいと切望したし、別に障害となるものもなかったが、ただ「神の義」という表現につまずいた。なぜなら私は、義を、それによって神は義(ただ)しいのであるし、義しくない人間を罰するのに義しく処置し給うのである、という意味にとったからだ。
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日夜わたしは思索し、ついに、神の義と、「義人は信仰によって生くべし」という言葉との関連を、見つけた。それから私は、神の義が、それによって恩寵と全くのあわれみから神が信仰を通してわれらを義とし給うところの義しさである、ということを理解した。そこで私は、自分が生まれ変って、開いている戸口からパラダイスへはいったのを感じたのである。聖書全体が新しい意味を持っていたし、以前には「神の義」が私を憎悪で一杯にしていたのに、今ではそれが私には、一層大きい愛のうちに、言いようもなく快いものになった。このパウロの一句は、私には天国への扉になったのである。
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信仰によって神を知るというのは、つまり、君が怒りも不親切も存在していない神の慈父らしい優しい心を見上げることである。神を怒ってい給うように見る人は、神を正しく見ていず、ただ、まるで黒雲が顔をさえぎっているように、カーテンの上だけを見ているのである。

〔ルター〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
327頁

「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。」(ローマ1・17)

 「義」とは「ただしい」ということです。神の義とは神さまの正しさということです。神さまは正しいお方で、人間は正しくない存在です。正しい神さまはその正しさをもって、正しくない人間をおさばきになります。人間は正しくないので、すべての人間はさばかれてしまいます。さばかれた者はすべて滅びに向かうということになります。しかしそれでは神さまの救いはどこにあるのだろうかという疑問が起こります。
 そこでさばかれないために、罪びとであるけれども功績を積み上げることによって救いの道を築いていこうということが、人情として起こってきます。しかしいくら功績を積み上げても心の中には罪の赦し、永遠のいのちへの確信が生まれないのです。
 神さまの義ということから、どこか恐ろしい神さまのイメージを持ってしまいますが、自分の正しさによって神さまの前に立とうとしている時には確かにそのようにしか見えないのかもしれません。しかし神さまは罪びとでしかない私たちのために御子イエスさまをこの地に遣わし十字架と復活による贖いの御業を成し遂げてくださいました。このお方を信じることによって、つまり信仰によって人は義と認めてくださるのです。それが神さまの義、正しさなのです。
 この神さまの義、神さまの正しさによって、人間は救われると聖書は語ります。人間の正しさによって救われるのではないのです。
 ここにおいて神さまの義と神さまの愛とは一つのことであることがわかります。よく義と愛を背反するものとして語られる場合があると思いますが、確かに人間の理屈ではそうかもしれませんが、聖書に語られた神さまの義と愛は一つなのです。十字架において一つとされたのです。あるいは神さまはご自身の義と愛は一つであることを十字架において語ってくださったのです。
 ですから十字架はそれまでは呪いの象徴であったかもしれませんが、愛の象徴となりました。十字架抜きでは聖書を読んだことになりません。義と愛が一つになった十字架の御業を通して聖書全巻を読むとき、ルターのようにパラダイスが開けることになります。


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