罪人への偏愛
2017年10月26日(木)教法師やパリサイ人に対してあれほどきびしい彼が、小さき者に対してはくつろぐ。好んで彼等の間にとどまるのは、謙遜からでも、犠牲的精神からでもない。彼等が好きなのである。というより、彼は世を憎んで居り、世のものでない人々に身を捧げるのである。
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かくして、彼は自らを、羊の持主に、九十九匹を捨てて、失せたる百匹目の羊を追う羊の持主に、比較する。彼はその残りの一匹を胸に抱えて帰るのである。彼の言葉をききながら、銘々はこんなことを考えていたに相違ない。「この人の語っているのは自分のことだ・・・」〔フランソワ・モーリャック〕
『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
326頁
「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカ15・7)
すべての人は神さまの御許を離れ迷える羊となっています。さまざまな意味ですべての人がこの世から疎外されています。ですから神さまはすべての人を愛しておられます。
しかしこの世から疎外されているにもかかわらず、あるいは阻害されているからこそ、この世に固執する時があります。そんなときは神さまから遠く離れているのかもしれません。