高価なめぐみ
2017年10月9日(月)

安価なめぐみは、悔い改めのないゆるしの説教であり、教会訓練のない洗礼であり、罪の告白のない聖餐であり、個人としての懺悔のないゆるしの宣言である。安価なめぐみは、主に従うことを要しないめぐみであり、十字架のないめぐみであり、人となりたもうた生けるイエス・キリストのないめぐみである。高価なめぐみは、畑に隠された宝であり、そのもののためには、人は行って、持っているものをみな、よろこんで売ってしまうのである。・・・それは、キリストの王としての支配で、そのためには、人は、自分をつまずかせる眼をも抜きとるようなものである。
・・・
めぐみは、何はさておき、神に高い価を払わせたから、すなわち、「あなたは、高い値段で買いとられた」というように、神に、その御子の生命を支払わせたから、また、神のとって価の高いものは、われわれにとって安価でありえないから、高価なものなのである。

〔ボンヘッファー〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
309頁

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43・4)
「「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1・15)
「イエスはペテロに言われた。『わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。』」(ヨハネ21・22)

 主イエスさまにある者は一方的な神さまからの恵みによって救われました。信じるということは、自分の行為ではありますが、一方的に自分が行為をするということではなく、その前提として神さまが招いてくださるという神さまの行為が先行しています。この神さまの行為が前提となって、その神さまご自身に包み込まれるように、私の「信じる」が生まれ、支えられています。ですから信じるということは信頼するということであり、ゆだねるということでもあります。この神さまの先行する行動が十字架であり復活なのです。私がまだ罪人であったときに神さまは私への無限の愛を示してくださったのです。私たちはただこの無限の愛を受け入れるしかありません。私たちは神さまからの一方的な恵みによって救われたのです。
 この恵みは安価な恵みではありません。神さまの命が注がれた恵みです。神さまがご自身のいのちを注いででも買い取りたいと願われた高価な恵みなのです。
 高価な恵みなので、主イエスさまに従うこと、祈り求めること、くりかえし求めること、そして私たちがその命を棄てても手に入れたいと願うこと、そういう人生を私たちに与えます。この恵みは、罪を罰する恵みであり、罪人を義とする恵みなので、私たちをきよめの道に招きます。
 そうしてまことの命に生きる道を私たちに与えます。


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