自己の醜悪
2017年10月7日(土)

世界の存在と私の生存とは、神の愛によって呼び出されたものである。この命題の重大性は、殆ど計りつくし難い。私自身はこの命題を失えば、もはや生きてゆくことが出来ない。・・・このことによって始めて世界の存在に意味が認められ、私の生存に祝福が認められるに至る。私の眼から見れば、神の愛なくして生きている人々は殆ど不可思議な存在に見える。神の愛への信仰なくして、如何にして人は世界の無意味と自己の醜悪とに耐え得るのであろうか。そのような人は結局見るべき真相を未だ見ていないから、生きるに耐えているのではなかろうか。
・・・
私の頭の髪をも数えるまでに徹底的に真実に私の存在に対して責任をもっている愛の存在者がいる!

〔北森嘉蔵〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
307頁

「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」(マタイ10・29~31)

 この聖句は、雀がとるに足りないものでそれに比べて人間はすぐれているのだ、という自然に対する人間の優位性を語っているのではありません。被造物のすべては神さまの愛に支えられているということを語っています。
 私自身を見れば、失敗と悪と憎しみと足りなさでいっぱいなのです。自分の中に自分が生きていてよいという理由を発見することが出来ないのです。一刻も早くこの世界から消し去ってしまわなければいられないようなことなのです。
 しかしその醜悪でしかない自分の生存を支えている存在がある。それが全能であり義であり愛であり、しかも人格であり、また十字架の苦しみを経験し、復活のいのちを与えるお方、主イエス・キリストさまです。
 猫の小太郎を見、牧師室のスパティフィラムやモンステラを見、彼らに「君も生かされているのだな」と声をかけつつ、おおらかに生きているその姿から、信仰の生き方を学ばなければなりません。


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