さらにここにユダヤ・キリスト教が付け加わります。キリスト教では、この世の創造主である神は万能であり、したがって、この世界は本来、見事な秩序をもって作られているはずです。とすれば、人間が理性を磨き、霊的な存在に近づけば、この世界の秩序をよりよく知ることになる。つまり、人間の精神は、抽象的で普遍的なものとしてこの世の本質を理解し、さらに、それにしたがって現実世界を造り変えることができるであろう。こういう考えがでてきます。
ここでプラトン哲学とキリスト教は合体し、人は世界の外に立ち、その理性によって普遍的真理を把握し、世界を作り変えることが出来る、という発想が生み出される。また自然のうちにも法則があり、人は、その法則を知ることで自然をコントロールできる、ということにもなる。
(佐伯啓思、『さらば、資本主義』、新潮社、2015年)
青年時代に過ごした教会でご指導くださった宣教師はイギリス人で、日本に対する理解のとても深い方でした。小林一茶の研究でロンドン大学から学位をいただかれたほどの勉強熱心な先生でした。宣教師をリタイアされた現在はロンドンでご奉仕されています。日本で奉仕されていた時はよく魚釣りに連れて行ってくださいました。この時期の信仰生活を振り返ると、自分の中でキリスト教と西欧文化が重なり合っていたように思います。
神学校に学ぶようになって、そこでお出会いした恩師は、日本のキリスト教が西欧周りであり、ほんとうのキリスト教とはずれている部分があるということを丁寧に教えてくださいました。今この時代にイエスさまが来られて礼拝に参加されたなら「これはいったいなんの宗教ですか」と問われるでしょう、などと少し冗談交じりにおっしゃっておられました。そこから、ほんとうのキリスト教とはいかなるものか、日本においてキリストを信じるということはどのような道に生きることなのか、と考えるようになりました。神学校を卒業したのが今(2017年)から25年前ですから、折に触れて考えて25年ということになります。
数年前に新聞の連載を読んで以来佐伯啓思先生の文章に魅かれています。上記の部分を読み少し考えてみました。実は「現実世界を造り変えることが出来る」という考えですが、最初に紹介した信仰を育ててくださった宣教師の先生からも感じたことです。とても日本通であったと思うのですが、また日本の自然や文化に理解を深めようとなさった先生なのですが、どこかにこの「現実世界を造り変えることができる」というにおいを感じたような気がします。そこに自分の中に流れている何かが違和感をもって反応したような気がしました。
本来のキリスト教はこういうことではないのですが、こういうことになってしまったのは「西欧周りのキリスト教」だからではないかということです。私たちプロテスタント教会は、ローマ・カトリック教会の流れの中にあります。つまり西方の神学が流れているのです。これに対して東方の神学、つまり正教会の信仰はもう少し彼岸的であり、それとともに自立的であるように想像しています。
キリスト教の終末論は、漠然とした世の終わりについての悲観的思弁ではないし、また逆に楽観的に脚色された願望の未来への投影でもない。歴史の終わりを待ち望む聖書の信仰は、歴史の中では未解決の義への問いと結びついており、この問いに答えをもたらす方としての歴史的人格の思い出と結びついている。
(芳賀力、『物語る教会の神学』、教文館、1997年5月20日発行)
ここしばらく芳賀先生の本を喜びをもって読んでいます。勝手な理解ですが、この本の終末論を語るところで、彼岸的、自立的な信仰のあり方が語られているように思いました。ラインホールド・二ーバーの祈りを思い起こします。
O God,Give us
Serenity to accept what cannot be changed,
Courage to change what should be changed,
and Wisdom to distinguish the one from
the other.(Reinhold Niebuhr)
神よ
変えることのできるものについて
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては
それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。ラインホールド・ニーバー(大木英夫訳)