罪あるままの人間
2017年10月5日(木)

「大地を愛しなされ、お前の接吻で大地を覆うのじゃ。すべての人を、すべての物を、愛して愛して、愛しぬかねばなりませんぞ。愛の感激を求めなさい。大地をお前の喜びの涙で濡らすのじゃ。そしてお前のこの感激を尊重しなければならぬ。それは神様からの偉大な賜物なのじゃ!」(「カラマーゾフの兄弟」)と、僧ゾシマは臨終にさいしてその弟子たちに命ずるのである。人間のあらゆる欠陥や罪悪を超えて、もうすでに最後の赦しの光が輝いているとすれば、人間の消極的側面も、悪徳の深淵も、それらが神の恩恵を証しする積極性をかくしているから、もはや最後の悲劇を以って扱われることはないのである。
・・・
人間のあらゆる積極的なものは全く不可解で、かつ相対的なものであることが見透され、従って誰も他人の前で自分が決定的にすぐれているなどとは考えられないだけでなく、むしろ「どんな人でもすべての人に対して、すべてのことに於て罪がある」とすれば、正にこの共通した人間の疑わしさのために、互に自分を他から区別し引き離すことは全く無意味となり、あらゆるパリサイ主義、すなわち自分を正しとし自分を高くしようとする欲求はすべて終りを告げ、そして兄弟愛の自覚が生まれる。そして確かにそれがただ一つの命令となり、それに並ぶ他のものは無くなるのである。

〔E・トゥルナイゼン〕

『愛と自由のことば』
大塚野百合、加藤常昭編
日本キリスト教団出版局、1972年12月15日初版発行
2011年6月20日第14版発行
305頁

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5・8)
「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(第1コリント13・13)

 愛するということ。それは罪があるままに愛するということ。それは自分も罪びとであるという自覚の中に生まれるのです。そして自らが罪びとであるということは、キリストの十字架に前においてのみ明らかにされることです。


投稿者:

タグ: